第一部  忘れたくない言葉01


  シャロンは取り付かれたように、数多の世界の中でも希少な物に、衝動的に文字を書き殴ってしまっていた。そんな自分に呆然としてしまい、シャロンはその場に静止し続けていた。

  普段止まるはずのない思考でさえ、止まってしまった状態である。シャロンはしばらく静止し続けた後、はっと我に返った。そして誰も居ないことをいいことに、部屋内をぐるぐると歩き回る。   全身の震えが止まらない。それが治まるようにと、歩き続ける。精神的な疲労と、肉体的な疲労が同じく限界に達したところで、シャロンは寝台(ベッドに倒れ伏した。

  まるで心臓が胸を破るかのような勢いで、鼓動が鳴る。この音が誰にも聞こえていないのが嘘のようだ。

  このまま眠ったら元に戻っていないかしら?

  痛切にそう願うが、そんなときに限って意識が落ちることはなかった。
  頭の中の自分が、自分をあざ笑いながら責める。どうせお前には無理だ。お前は人の言うことをただ聴いていればよかったのだと。
  シャロンの胸に、どす黒いインクのような点が一つ落ちた。それをいいことに、頭の中の自分の声が益々大きくなっていくのを感じる。
  お前が自分で動くと、厄介ごとしか引き起こさない。お前には仕事一つ満足に出来ない。あの怪しい男に殺されるのがお似合いだ。

  なにせ、自分の母親を殺したのはお前なのだから。

  そうあのとき、私がお母様を殺した。

  よく覚えているでしょう?  忘れられるはずがないものね。

  妙に艶やかで、楽しそうに語る自分の声に、シャロンは頭を殴られたかのような感覚になる。
  久しぶりの――感覚だ。そうあの時、あの時あんな事を言わなければ、お母様は死ななかったはずだ。死ななかったら、お父様はあんなに忙しくなくて、様々な人から後妻をもらうように言われることもなかった。
  お母様を忘れられないお父様が、陰口に晒されることもなくて……

  私はお母様のようにならなくちゃいけないのに……

  私はハミルトン家にふさわしい娘になるどころか、人としてもまともになれない。あんな希少な物を、ただふと浮かんだ言葉のままに扱ってしまうだなんて……
  シャロンは冷静で用心深いという言葉に、自分が近づけていないと言うことを痛感した。

  私はいつも、自分を取り繕っているだけね。

  シャロンは自分の口元が、漏れた声とともに歪んだことが分かった。そしてほろ暗いものが自分の胸から溢れ、全身を満たしていく。
  だがシャロンはそれを止める気にはなれなかった。何故ならそれが、本当の自分だからだ。どんなに努力しても、シャロンはリリスに近づくことなど出来ない。相手はもう何処にも居ない。だというのに、近づこうと思えば思うほど、遠ざかっていく気がする。

  自分が壊した物だからこそ、自分がそれを直さなければならない。だというのに、がんばっても人並みにしかならない。人の倍以上練習をしても、そこから巧くなることはないのだ。
  ずっと体調が良くないからこそ、具合が悪くてもそれを押さえた。倒れそうになっても、意識を失うことは恥ずかしいと思って、それに耐えた。

  青年の前で倒れたのは、彼がアドルフに「お前の娘殺していいか」と言ったとき、やっと自分に天罰が与えられるかもしれない。そう思ったからだ。
  その途端、自分の中の張りつめていたものが、あっという間に緩んでしまった。
  彼が人間じゃない事は、よく分かっていた。頭では分かっていなかったが、本能的に察知していた。そうなのだと、今になっては思う。
  だからこそ人間でなく、それより圧倒的な存在に殺されるというのは、自分が悪人なのだという証明の気さえした。

  歓喜に震えたといってもいい。

  やっとやっと苦しまずに済むと、そう思ってしまったのだ。浅ましいことに。
  自分でリリスを殺したというのに、とても身勝手な思いだ。
  楽になれると思った。
  行動にはならなかったものの、完全に心はそれに惹かれていた。
  彼に殺されれば、使用人達も咎めを受けることなく終わるだろう。
  ならば、彼に殺されるのが一番だ。

  伯爵令嬢(シャロンが死ぬには、誰に殺されたのか分からなければならない。
  シャロンが死ぬことで、誰かに濡れ衣が掛かることだけは阻止したかった。
  最期くらい誰にも迷惑をかけずに死にたかった。
  けれどもそう思うことすら、いけないことだ。
  シャロンは母親を殺したのだから、ずっとそれを償わなければならないのに。

  なんて身勝手なのかしら。自分でしてしまったことなのに、それを悔いて、悲しむなんて……
  悲しむべきはアドルフや、リリスを慕っていた使用人達や友人たち、リリスの実家の家族たち――そしてリリス本人だ。
  まさか命を懸けて生んだ娘に殺されるだなんて、夢にも思っていなかっただろう。
  シャロンは償わなければならない。リリスのようにならなければいけないのだ。間違っても自分のことを考えてはいけない。自分のために何かするなんて、許されることではない。
  シャロンは今、労働者階級のような生活をしている。がしかし、それは一時のことだ。

  こんな生活をしていても、伯爵令嬢(レディなのは変わらない。
  シャロンは自分にそういいきかせる。今度こそ逃げないように、ちゃんと自分のしたことに立ち向かえるように。
  もう私のやったことを思い知らせてくれる人がいないからって甘えちゃだめよ、シャロン?
  きっとまだ間に合う。自分がどうしようもない人間なのは知っている。だから、どうか……これ以上私のせいで誰も不幸になりませんように。
  シャロンはぽつりと胸中で呟いた。





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