第一部  忘れたくない言葉02


  シャロンは久しぶりに、頭痛や吐き気、現実味がない浮遊感、そして記憶の途切れなどに襲われていた。だがこれがシャロンにとっての当然でもある。
  王都にきてからと言うもの、慣れない環境に神経が高ぶっていた。そのためいつも以上に気が張りつめていた。しかしそれが一気に解放され、取り繕う環境下でない――誰もいない――こともあり、そのまま体への異常として出たのだろう。

  いつもは具合が悪くてもニコリと笑うくらい平気である。けれども今は、そんな余裕も無い。体の感覚と意識を切り離し振る舞う。そうすることで、いつまでも直らない気持ちの落ち込みや、それに伴う具合の悪さを誤魔化し続ける。それが今までの日常だった。
  けれどキャナダイン夫妻や、フラムスティード家に来てからは、それをする必要がなかった。ただの居候や、メイドとして振る舞えば良かったからだ。本来の自分でないこと――つまり伯爵令嬢でない立場だということ――が皮肉にも、シャロン自身を浮かび上がらせることになっていたのである。

  気持ちを意図的に遮断し、体の具合の悪さに意識を向けないようにする。とは言ってもシャロンは未だルシールのことが気がかりだった。きっと久しぶりの日常に、シャロンの気持ちが追いついていないせいだ。
  しかも今までも殺人犯だということを隠し、いや、騙し続けていたのだ。けれどもそれをルシールに告げたところで、シャロンの罪悪感が軽くなる程度だ。それだけならばいいが、最悪ルシールに精神的苦痛を与えるだろう。人を欺く材料が増えても減っても、ルシールを、いや、沢山の人を騙していることに代わりはない。
  それに父にも迷惑をかけてしまう。今まで必死に隠ぺいしてきた。それなのにシャロンが誰かに告白してしまえば、すべてが水の泡だ。

  何もかもなかったことには出来ないのだから。

  今シャロンがここに居られるのは、リリスの死因が病死だと思われているためだ。元々リリスの家系は短命で、原因不明の死を遂げる一族で有名だ。そのためシャロンは、肖像画や写真でしか、祖父母の姿を知らない。
  それ以前からリリスは体調を崩していた。他界する数年前から動ける範囲は屋敷内やその周辺だけだった。シャロンは覚えていないが他界する一ヶ月前程から、完全に寝たきりになったらしい。   そのような状況だったために、シャロンは生きながらえているのだ。

  このまま消えちゃいたいわ……

  普段ならば――このような生活の前のことではあるが――その気持ちを奮い立たせ令嬢(レディに戻る。しかしまだそれは難しいようだ。幸い自由時間なのだし、多少横になっていても構わないだろうか?

  本当に自分を甘やかすのだけは得意ね。

  ふっとシャロンは胸中で笑う。体調不良では侍女(レディースメイドの仕事に支障をきたす。しかしそれは自分を甘やかすことにつながることだ。けれども個人的な事情で、侍女(レディースメイドの仕事を全うできない方が問題だ。そう言い訳をしてシャロンはそのまま横になり続けた。

  昼になった。シャロンは陽の高さからそう推測した。その少し前メイドが訊ねてきてくれた。気を使って、昼食のことを訊きに来てくれたらしい。
  シャロンは朝食が美味しすぎて食べ過ぎてしまった。なので昼食は――本当は食べる元気もないが、そう言うわけにもいかない――パンとスープだけでいいと言った。
  けれどそう言ったとしても、そうはならないだろう。お嬢様の友人の侍女(シャロンに気を使わない。そんな選択肢は、あの使用人たちには無さそうだ。

  出来る限り綺麗に食べて、残すしか無さそうね。

  シャロンはそう結論付け、自分の姿が人前に出られるかどうかを確認し始めた。

  昼食は美味しかった気がする。なんとかすべて食べたような気がする。また記憶が飛んでしまい、よく覚えていないのだ。メイドも気遣ってくれた。シャロンもそれに応じた。しかしなにを言われて、なんと答えたのだろうか?
  ふわふわとする自分の存在に、自分がどう思っているのか――思考を纏めるのもおぼつかない――分からない。ただただこの場にいるのが、シャロンにはつらかった。しかし、どこにいても辛いのには変わりない。

  シャロンは、使わせてもらっている部屋にふらりと戻る。そして震える手で、『鍵』を手に取った。
  ずっと知らない振りをするわけにもいかない。そう思い、恐る恐る『鍵』を開く。

  するとそこには、わずかに見た覚えのあるそれが、目に飛び込んできた。今のシャロンには一段と真っ白く感じる、眩しい頁だ。
  パラパラとそれをめくる。いつまでも眩しい頁に、シャロンは訝しさを感じた。
  シャロンがそう思えば思うほど、頁は勢いを増し、捲れていく。シャロンの中で刺々しい感情が膨れ、弾けた。
  しかしそれと同時に、その痛みを癒すような暖かい水のようなものが胸に染み渡っていく。

  私は『鍵』(この方にお手紙を書いたのではなかったかしら?

  漠然と頭に、自分の言葉が響く。確かに自分は衝動的に書き殴ったはずだ。『鍵』に自分の思いの丈を。鍵に訊きたいことをつらつらと書いたはず。だというのに、どの頁も眩しいままだ。
  シャロンは恐る恐る万年筆を取り出し、震える手で適当な頁に真っ直ぐに線を引いた。するとその線は頁に吸い込まれるかのように、消えてしまった。
  シャロンは再び、線を引く。しかしこれもまた同じく消える。

  ……私が書いたお手紙も、こんな風に消えちゃったということ?

  そう思った途端、ふっと全身の力が抜ける。そしてそのまま床に倒れ込む。他者がいたら突然のことに驚いたであろう。
  けれどもシャロン自身は、その瞬間を緩やかに感じていた。そして無意識に受け身を取り、衝撃を受けずに済んだ。
  それはシャロンが怪我をすれば使用人に迷惑をかけてしまう。そう思った末に身につけた、何とも言いがたい技である。

  勘違いして、そのまま引きずり下ろされるだなんて、本当に私って……

  自分で勝手に勘違いして、暴走して、反省した自分はなんて滑稽なのだろう。
  いや、反省自体は間違い無いとおもうけれど……
  しかし自分と対話しても、シャロンにとって、いい意味は無いに等しい。自分の間違った行いに、総てを持っていかれてしまうからだ。シャロンの思いも、体調も。

  こんな風に考えていても、所詮それこそが自己満足なのよね、きっと……
  このように色々と考え込むこと自体が、自分の中だけでも、自分の境遇を嘆いているようなものだ。こういうことは出来る限り止めないと。自分の行いが招いたことだ。それを生きて償うことしかシャロンには出来ないのだ。
  いま出来ることは、伯爵令嬢として不名誉なこの現状を、打開することだ。それが出来なかった場合は、何かしらの措置がとられることだろう。そしてそれはシャロンが考えていいことではない。裁くべき人が裁くのだ。
  シャロンは自分の脳裏に黒い影が見えたが、それを無視し、そう自分に言い聞かせた。

  ガチャリ

  物音がした。シャロンは反射的にそちらを見る。
  そこには窓があった。シャロンが訝しく思っていると、窓が外側から開かれる。思わぬ状況に、シャロンは身を固くし、目を離さないでいた。それしか、できなかった。
  窓から現れたのは、男性のようだ。見覚えはない。シャロンは恐る恐る様子を伺う。すると男性はこちらへ向き直る。

「貴女は、レディ・ハミルトンですね?」
「はい」

  シャロンのその問いに反射的に答えてしまった。レディ・ハミルトンは――リリスが居ない以上――シャロンしか居ないというのに。こんな命を狙われている状況で、自分がロゼッツ伯爵の娘だと、答えてしまったのだ。
  男性はその答えに安堵するかのように、ため息を吐いた。そして居住まいを正し、シャロンに敬礼した。

「このような礼節に欠いた訪問、申し訳ございません。本官は変怪異形処理対策課所属調査官、ジョージ=コーエンと申します!」

  シャロンはキレのある動きで敬礼し、にっこりとそう微笑みかけてくる男性の姿に、ただただあっけに取られていた。





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