シャロンは成り行きで、ハウスメイドになるための面接を受けることになった。受けることになったのは、何を隠そう、雇用契約所で見つけたあの求人である。
今シャロンは、その面接会場――フラムスティード家の一室で、一人で待機している所である。合格してもしなくても、もう入ることのない雇い主家族や客人が使う正面玄関から、シャロンはここに通された。
しかしシャロンは、労働者階級の少女たちが通っただけで、感慨を覚えるであろうその場所を通っても、緊張感しか感じていなかった。
先程から無意識に『経歴』を手に持ち、手持無沙汰を誤魔化すかのように、パラパラと捲っていた。しかし、視線はそこに置かれてはいない。
もう暗記――いや自分の物にしてしまったため、見る必要もないのである。
求人票に記してあった住所に、連絡を取ったのは三週間前だ。そして書類選考に通ったのは二週間前である。書類選考に通ったと分かった途端、青年はあるものを差し出してきた。
それは厚い紙の束で、シャロンの『経歴』が書いてあった。勿論それは、シャロンの経歴ではない。メイドとして働くための『経歴』である。
それによると、シャロンは地方で洋品店を営む家の生まれらしい。父親に行儀見習いの一環で、メイドになるように言われた。そのため今回働くことになった……という内容だ。他にも事細かく内容が決まっていた。初めて見たときは、メイドではなく女優になる話だったのかと、思ったほどに。
勿論、青年にもそれを指摘した。けれど、こういう些細なことをしっかり決めておかないと、後々まずい。そこからシャロンの身元が分かってしまう可能性がある。あの少年の事を抜きにしても、素性が判明しないように努力はしないといけない。そう力説されてしまった。
もっともな理由ではあるが、シャロンはそれが青年が面白がるためだと言う事に感づいていた。
探偵事務所でのレスチャーの言葉を密かに噛みしめた後、シャロンは青年に悟られないように彼を観察することにした。
しかし、観察するまでもなく自信を持ったことが一つだけあった。それがこの人を面白がるのが好きだという点だった。
青年は人が――というよりシャロンが困っているのを、楽しんでいる節がある。彼自身もそう言っていたのだが、彼の言葉は事実なのか冗談なのか判断が付きにくい。
そのためシャロンは、どんなことでも無意識に考え込んでしまう癖があるが、青年の言ったことについては、意識して考えることを止めるようにした。
考えたところで混乱するだけだからだ。それはシャロンにとって、今までかつて体験したことのない――感覚だった。
それゆえこの分かり切っていた事柄でも、自分の判断を普段以上に疑ってしまうようになっている。
シャロンは自分にとって、その人が良い人なのかそうでない人なのか瞬時に分かってしまう。だが青年に対して、その判断が付かないでいるのは、この青年の話す内容によるところが大きい。
だがしかし、青年を楽しませることが出来れば、シャロンの寿命も延びるかもしれない。なんだか青年のおもちゃにされているようで不服ではあるが、こればかりはどうしようもない。
けれどもそれ以上に、気になっていることがあった。
失念していた自分が悪いのだが、青年相手にこれは痛い所の話ではない、大きな盲点だった。
シャロンが働いている間、彼はどうやってシャロンを守ってくれるのだろう。
そう、後からそのことに気づいたのである。メイドとして働くのに、護衛を連れて行くわけにはもちろん出来ない。これでは彼を知るどころか、彼が何をしているのか分からない。
殺人が趣味だと言い張るような彼のことだから、シャロンが働いている間に人を殺していてもおかしくないのではないか?
その疑念が頭から離れず、シャロンは面接どころの話ではなかった。だって、面接に落ちれば彼が殺人を企てる事自体が難しくなるからだ。
この世のためには、自分が犠牲になったほうがいいのではと思い始めているシャロンであった。仕方ない――契約内容を変えるのはずるい気がするが、受かってしまった場合は、シャロンを守ってもらう間だけでも、殺人をしないように言い含めておこう。
息を吐き出した瞬間、ノックが三回された。シャロンは『経歴』を瞬時に仕舞い、返事をする。
「お待たせしました、面接場所までご案内します」
そこには幾分古風な制服のフットマンが居た。
「お願いします」
シャロンは深呼吸し、面接場所まで向かった。
今シャロンは、その一連の出来事を振り返りながら、行き場の無いその思いを、玄関にぶつけていた。面接の合格が分かった時の、複雑な気持ちを分かってもらえるだろうか? 一応彼には丁寧にお願いしてきたわけだが、心配が拭えるわけでもない。
屋敷内の様々な物を丹念に磨き、美しく保つのがハウスメイドの仕事である。
家人がまだ眠っているころに起きて、簡素な――汚れても大丈夫な――プリント地の衣服にエプロンを身につけ、ハウスメイドボックスを持ち掃除を行う。
幼いころはよく、メイドの仕事を覗き見たものだった。それがまさか、こんな形で役に立つとは……
流石にこのようなお屋敷では、マリーの知識だけでは補えない。勿論色々な指導をしてもらえるが、参考に出来そうな記憶があるのは心強さが違う。
この仕事をしているうちに、気づいてしまった事がある。物が綺麗になっていく様子を見るのは楽しい、ということだ。
掃除自体は大変だ。それは絶対に言える。
けれども自分が掃除をした物や場所が綺麗になると――元々綺麗ではあるが――何か胸に暖かいものが灯るのを感じる。
今までの伯爵令嬢としての生活より、ハウスメイドやキャナダイン夫妻宅での居候生活の方が、充実している気がする。そんな事を思ってしまう事すら、自分の立場を考えると良くないことなのだろう……いや、今の生活をしている事すら、許されないことなのかもしれない。
例えそれが、命を守る行為だったとしても。
何かがシャロンの肩に触れた。シャロンが驚いて振り返る。するとそこには、
「そんなに玄関の掃除は楽しいかしら」
「あ、あの、すいません、つい夢中になってしまって……」
色々考え事をしてしまい、周りの様子すら分からなくなってしまうのが、シャロンの悪い癖の一つである。
「……まぁいいけれど、ここはもう良いから、控え室に行って頂戴」
セルマはメイド頭に相応しい人物だ。的確な指示でハウスメイドを動かし、自分の仕事をしっかり行っている。
どんな出来事にも眉一つ動かさずに対処する姿を見ると、将来は
シャロンは頭を下げ早足になりながらも、静かに慎重に指定された場所へと向かって行った。
「あーやっと来たわね」
そうシャロンを迎えてくれたのは、ハウスメイドのケイティである。シャロンと同室で、何かと世話を焼いてくれるのだ。
セルマ曰く自分の後輩が入ってきて嬉しいらしい。
「ごめん、全然気づかなくて」
「ほんとだよもう! こっちがいくら声掛けても全然だし、なんか難しい顔で玄関から離れないし」
「ご、ごめんなさい」
そんなに変な顔をしていたのだろうか。少し気になってしまう。
「まぁいいけどねー」
「あの、私に出来ることは何かある?」
「控え室は殆ど終わってるみたいだから、廊下とか拭いておけば大丈夫じゃない?」
何とも雑な言い方である。しかし、掃除するに越したことは無い。シャロンは今以上に綺麗になるよう思いをこめて、手すりを磨きにかかった。