シャロンは青年にレスチャーの探偵事務所から連れ出された。
シャロンはこのまま宿に行くのだろうと思ったが、違ったようだ。青年に連れてこられた場所は、シャロンが青年に初めて助けられた時に、立ち寄った屋敷だった。
そう、あの中流階級の人々が住んでいそうな屋敷である。
青年は、シャロンが思わず立ち止まったことを気にすることなく、屋敷に入って行く。
青年の軽い足取りとは対照的に、シャロンは恐る恐る玄関の扉を開いた。
軽く目を見張る。以前来た時に受けた印象と今ではまるで違う。以前は注意を払わなくても分かるほどに、埃が辺りを覆っていた。
しかし今では屋敷全体が、一つ一つ隙無く綺麗に磨かれたのだろう――視線を彷徨わせてもどの備品も物言わぬ存在感があった。
丹念に観察すると、観賞植物や、今では余り見かけない
ここに連れてこられたのはいいが、青年はどうするつもりなのだろう。きっと少女たちに襲われたため、キャナダイン夫妻の家には戻らない方がいいという事なのだろうが……
案の定、青年は今日は戻らないほうがいいと告げ、好きな部屋で休むように言ってきた。シャロンはその言葉に甘えることにした。今日は本当に疲れた。
少女たちに襲われたし、青年には再び殺害予告をされるし、散々である。
探偵の彼からは僅かではあるが、有用な情報も得られたが……
シャロンは鞄を開く。其処には『鍵』と、間違って持ってきてしまった着替え類があった。偶然とはいえ、なんというタイミングだろうか。流石に寝巻きは無いが、この状態では十分だと言えた。
シャロンは帽子を取り、上着とストッキングを脱ぐ。そして胴体を締め付けている
次に付け毛を駆使して、何とかシニョンに結ってある髪を下ろす。
付け毛を傷つけないように慎重に外すと、頭も軽くなった。髪が短いと下ろした時の解放感もまるで違う。これは髪を切られてしまってからの新しい発見である。
手櫛しで自前の髪を軽くとかす。本来なら付け毛も、とかすのだが、手櫛しでそれをやる気にはなれなかった。
シャロンは寝台に備え付けられている机に、付け毛を置き、脱いだ衣服を備え付けの
横になると、疲れを実感する。シャロンはそのまま眠りに就いた。
早朝、キャナダイン夫妻の屋敷にシャロンは向かった。心配してあるであろう夫妻に謝り、これからのことを説明しなければならない為だ。一応、青年も着いて来てくれるようだ。
夫妻に会うと、心配はされたものの、比較的落ち着いていた。どうやら青年から話を聞いていたらしかった。
ほっとしたような、それでいてなんだか残念な思いが過ぎるが、それを悟らせないように、シャロンはこれからのことを話した。
しかし、彼はどうしてこういう濃やかな気遣いが出来るというのに……いや、これ以上は何も言うまい。
夫妻はシャロンの言ったことを分かってくれたようだ。心配そうな面持ちではあるものの、丁寧に送り出してくれた。勿論マリーも。
マリーの様子も気にはなるが、きっと夫妻ならば大丈夫だろう。それよりも自分のことである。
今シャロンは、青年に雇用契約所に連れて来られた所だ。青年から渡された――いつこんな物を用意したのだろう――赤毛の鬘を付けている。
勿論雇用契約所に来るのは初めてだ。いや、こんな場所があることすら知らなかった。
シャロンは、青年の名前か正体を当てれば、命は見逃してくれるということばかりに気にとられていた。
しかしそれ以前に、シャロンが自分の稼いだお金で、青年を雇うという条件があるのだった。
基本的に屋敷の使用人は、以前勤めていた屋敷から紹介状を持参していることが多い。それを見て、
初めて勤める場合でも、ロゼッツ領――つまりシャロンの家の場合は、領民から使用人のなり手を捜す。なので使用人の身元がはっきりしている場合が多い。
しかし都会は、そう言うわけには行かない。地方からの労働者は増えているし、海外からの移民も増えている。だから、このような場所があるのだろう。
シャロンは先程から貼り紙を見ているが、どの条件がいいのか分からなかった。それもそのはず、昨日の話が頭から離れない。
レスチャーが言った、青年には自分を殺せないという言葉はどう言った意味なんだろうか。アドルフも同じようなことを言っていたが、理由が分からない。
女性は殺せないという意味なのだろうか? いやでもシャロンを襲った実行犯は、女性である。少年の命令で動く人形だと青年は言っていたが……人形だから殺せた? 人間であるシャロンは別? なら、どうして殺害予告ともいえることを言ったのかという疑問が沸く。
青年の身体能力なら、指一本でシャロンなんて――いや視線一つでも殺せてしまうかもしれない。
「おい、さっきならなに唸ってんだ」
青年が声を掛けてくる。今日の青年の服装は――こちらの服だった。勿論似合っているが、違和感のほうが先に来る。
「す、すいません、何がいい求人なのか分からなくて」
シャロンは青年が、このような職の斡旋場所に連れてきてくれたことが意外だった。職の一つくらい、自分で探せと突き放されると思っていたのだ。
使用人以外から世話を焼かれたことがないシャロンには、なんだが複雑な心境である。青年が命を狙ってなければ、こんなに複雑な心境に駆られることなんて……
いや、何を悩んでいるのだろう。
青年はシャロンが他の者に殺されるのが困るといっていた。
だから守ってくれただけだ。悩む必要なんて無いではないか。
今は利害が一致しているから一緒に居るだけで、それが無くなればすぐにでも殺されるだろう。
よく分からない条件も、ひとまずシャロンを落ち着かせるための方便に違いない。
その内容はめちゃくちゃだが、彼の言ったとおりになっているのは確かだ。
それに彼は人間ではないのだから、感覚が違うのは当然である。
そう考えると、少し落ち着いた気がする。レスチャーは――期限を過ぎても殺すことは出来ない――と言っていた。
けれども、それを信じることは出来なかった。
その話を鵜呑みにできるほど、馬鹿ではないつもりだ。
期限までに青年の名前と正体を当てなくてはならない。
当てるには青年を観察することだといっていた。その意見についてはレスチャーに賛同してもいいだろう。
これからは青年が、どういう人物なのかを知る必要がある。考えても考えても分からない。
今はいろいろ知ることしかできないのだから、そうするしかない。
シャロンはほっと息を吐いた。
自分の中でやることが決まるだけでも、安心することが出来る。……つかの間ではあるが。
「気になるやつはあったか」
ずっと違うことを考えてたなんて言えないため、適当に求人を指した。青年は目を細め、その求人を見た。
「……」
「あ、あの……」
青年は舌打ちをし、シャロンを半眼でちらりと見てため息を吐いた。
彼はどう見ても、呆れていた。青年は「来い」と言うと、シャロンを、目的の求人票のある場所に連れてきた。
そこには、ハウスメイド募集の貼り紙があった。
「私、掃除なんて出来ません!」
大声が僅かに出たが、なんとか途中で小声で青年に抗議した。
「……お前器用だな」
「変なところで関心なさらないでください!」
勿論、この反論も小声である。
「いや、でもお前自分の部屋の掃除やってたって聞いたぞ」
「どなたがそのようなことを?」
「お前が世話になってた弁護士夫婦」
青年は考える間もなく、そう言ってきた。
「確かにご夫妻の家でも、自分の家でもやっていましたが、私は箒で掃いたり、水拭きくらいしか出来ません! 仕事が出来るほどの技術は……」
「最初は誰だってそんなもんだろ」
彼はどんな事でも簡単に言い切ってしまう。人には出来ることと出来ないことがあるというのに、無理難題ばかり言ってくる。もう少しこちらのことも考えて欲しい。
「簡単におっしゃらないでください! 私はこれでも家が家です、顔で私の身元が分かってしまう可能性があります」
「変装すればいい、俺が教えてやるから」
「えっ? 今なんておっしゃいましたか」
なんだか聴きなれない言葉が聞こえた気がする。聞き間違いだろうか。
「変装だ、変装。バレないようにすればいいじゃねーか、まぁ動作から、良いとこの出だって分かりそうなもんだけどな、最近親が事業を失敗したって言っておけば、まぁ誤魔化せるだろ」
最近では、商売を興さないと存続が危ない家が多い。
今の時代貴族の威光だけでは、ご飯を食べることも難しくなってきている。世間を渡ってはいけないのだ。社交場ではひそひそと、どこの家が没落した等の話をしている人も少なくない。
「早くその眼鏡外せよ」
「い、いまですか? 帰ってからでも遅くはないのでは」
「帰ってから外したって意味ねぇーだろ? 今なら近くに誰も居ねーしな。折角変装してんのにその眼鏡はないわ、早く外せ」
「私、眼鏡がないと何も見えないんです」
「生活に不便なのと、命狙われんのどっちがいいんだ?」
そういう言い方はやめて欲しい。外した方がいいのは――分かっている。
けれど、普段から掛けている眼鏡があることで、環境が変わっても自分は自分だと意識出来る。見慣れた眼鏡の縁が、少しでも視界に入ることで――シャロンはなんとか落ち着いていられるのだ。
それにシャロンは、顔の美醜を眼鏡で誤魔化している。眼鏡があるからこそ、顔を晒すのに抵抗がないとも言えるかもしれない。
身元を隠すには、眼鏡がない方がいいのは解ってはいた。眼鏡は高価なものだ。労働者階級が手を出せる代物ではない。
今まで彼が何も言わないので黙っていた。シャロンの考えが甘い事も勿論分かっている。けれど何か縋れる物が欲しかった。
しかし、彼の言うことは尤もである。こんな感傷なんてすぐに捨て去るべきなのだ。
「分かりました、外しますから」
恐る恐る眼鏡を外す。
すると目の前が、ぼんやりと歪んだ形を取った。外したばかりの眼鏡にしか、焦点が合わない。
眼鏡が宙に浮いた。
いや、青年がシャロンの手から、眼鏡を取り上げた。
青年は眼鏡を、首を傾げたり、手首を返したりして、難しそうな顔で見ていた。
最近一緒にいて気づいたが、青年は物をよく観察する。シャロン自身も助けられた時や、迎えに来て貰ったときもよく観察された。きっと、癖なのだろう。
青年はしばらく眼鏡を注視した後、シャロンに眼鏡を返してきた。
「もうよろしいのですが?」
「あぁ、眼鏡はな」
青年はぐっと屈んで、シャロンの顔に自分のそれを近づけてきた。
丁度シャロンの目の焦点が合う、息が触れあう程の近さだ。
シャロンは不可抗力で、青年の顔を見つめてしまう。レンズ越しではなく、直にみる青年の顔は一段と綺麗だった。
真夜中の闇のように温かい目に、自然と引き寄せられてしまう。
先程から心臓に違和感がある。こんなに格好いい人でなくても、元々人に近づくのは苦手なのだ。
そんなに見つめられたら緊張してしまう。
普段から人の顔を見るのが苦手だ。なのに不快感はない。
きっと綺麗な人だからだ。こんな風にまじまじと人の顔を見つめてしまうのは、何時ぶりだろう。
「あの、近いです。もう少し離れて頂けると……」
蚊の泣くような声で何とか抗議する。
「もう少しで終わるから我慢してろ、な?」
その言い方からすると、この状態は何か意味があるのだろうか。
短いような長いような時間が経ち、青年の顔が離れた――きっと実際の時間は、10秒程度だっただろう。
視線を瞬時に青年の顔から逸らし、違うものに焦点を合わせる。
あら? シャロンは違和感を感じる。焦点が合っている。
そう、見えるのだ。
先程までは10cm程度しか焦点が合わなかったというのに、今では2〜3メートル前の物まではっきりくっきりと見える。
「これでいいだろ? この位なら矯正したって殆ど意味はない」
「あ、ありがとうございます」
確かにこれ位の距離が裸眼で見えれば、歩くのに問題はないだろう。先程のまま街の中を歩けば、物にぶつかる事は必至だ。
ほっと一息をつき、シャロンは周囲の状況を確認する。途中で人が来なかったか確認するためだ。
どうやら、途中で人は来なかったらしい。別に悪いことをしているわけではない。
けれども異性と二人きりで歩く事すら、今回の騒動で初めて経験したシャロンである。先程顔を近づけられただけでも、気恥ずかしいものがあった。
人が居ない事に安心はしたが、どうも腑に落ちない。しかし、腑に落ちない理由も分からないのだった。何か忘れている気がする。
何を忘れているのだろう。思い出せないのなら、そんなに重要なことではないと思うのだが……
「おい、今度は何考えてる?」
青年の声でシャロンはふと我に返った。
「申し訳ございません。大したことではないのです」
「……」
青年は再び、シャロンを見つめてきた。
先程よりは勿論距離はある。しかし視力が上がってしまったため、緊張感という点では変わりなかった。
けれど、今回は考える余裕がある。綺麗な、いわゆる美形と言われる人に見つめられることに、緊張するだけではない。
青年を見ていると、自分の地味さや見目が良くないことを、否応無く実感してしまう。
格好いい人に、綺麗ではない自分を見られれば見られるほど、自分の醜さが際立つ気がして嫌だった。
「お前って、頭良さそうな顔してるな」
聞き間違いだろうか。今の様な感想を漏らされたのは、今までなかった。
「そのようなことを仰ったのは、貴方が初めてです」
「まぁ何でもいい、それより面接の日時書いたのか?」
「やはり、私が出来る仕事はああいった物だけになるんでしょうか」
駄目元だが聞いてみた。他家に仕えるなんて、貴族としての自分の矜持が許さないというわけではない。そんなものは最初から、シャロンの中では育っていない。
しかし自分の失敗や手違いで、アドルフやラヴィニアや使用人たちに迷惑をかける可能性のあることは避けたかった。
「あ、じゃあ何か? お前オレンジでも売んの?」
今までのシャロンだったら、それに頷いていたかもしれない。
しかし短い期間とはいえ、自分の本来属する社会とは違う世界を間近で見る事が出来た。オレンジを売っていた人の身なりを思い出す。
世間知らずのシャロンでも、オレンジの売人が労働者階級の中でも最下層に位置する人々の一人だとは、想像がついた。そう考えると、やはりメイドになるのが一番なのだと思う。
朝早くから起きなければならないが、住み込みで働けるのはとても大きい。きっとこれも神の試練? なのかも知れない。
「いえ、やはりあの面接を受けてみることにします」
「あっそ、じゃあこれ渡しとくわ」
青年は投げるように、シャロンに手紙のようなものを渡してきた。
「こちらは何でしょう」
「紹介状」
「えっ、今なんと」
「紹介状、無いと困るだろ」
なんという手際の良さだろうか。その時、シャロンの胸中にある仮説が過ぎった。
「……伺いますが、もしかして最初から私を他家に仕えさせる気だったんですか」
「やっぱ、お前頭良いんだな。それとも勘か? お前みたいな奴が、メイドしたら面白いじゃ済まないからな」
含み笑いをする青年を見ながら、シャロンは久しぶりに自分が憤っていくのを感じていた。