序章   迫りくる霧02


  王都での家である、タウンハウスに着いた。玄関まで向かうと、家政婦(ハウスキーパーであるアシュトン夫人が出迎えてくれた。
「お嬢様、お久しぶりでございます」
「お久しぶりです、元気そうでよかったですわ」

  アシュトン夫人は、いかにも生真面目で厳格な家政婦(ハウスキーパーといった面持ちの女性である。しかし若いころは、知的な美人だったと想像できる人だ。シャロンは、厳格なだけの夫人では無いことをよく知っていた。

  「旦那様は遅くお戻りになられるそうです。 お嬢様の御夕食のみ準備するようにとの仰せでしたので、そのようにしてあります。お嬢様の持ち物はもう届いてあります。お嬢様の私室へ運ばせ、然るべき場所へ収納しましたので、足りないものがないかお時間があるときにでもご確認下さい。御夕食が出来るまでお疲れでしょうから、私室でごゆっくりなさって下さい。それでは失礼致します」

  アシュトン夫人は事務的にそう告げ、腰から下げている鍵束を鳴らしながら、その場を後にした。

  私室へ入り、椅子に腰かける。その疲れ切った様子に「お嬢様、御夕食はこちらでお召し上がりになりますか」とメリッサが声をかけてきた。
「えぇ、悪いけれどそうしてもらえる?  あと食べ終わったら身体を洗いたいのだけれど……」
「はい、ではそのように伝えてまいります」
  メリッサは、足早に去っていった。
  きっと、シャロンが一人で落ち着きたいと思っていることが、分かっているからだろう。
  メリッサの気配が遠ざかって行くのを確認すると、シャロンは、自ら持ってきた荷物に手を掛ける。本当は疲れているので後回しにしてもいいのだが、このまま何もしないとまた嫌な事ばかり考えてしまいそうで怖かったのだ。

  何も考えずに、無造作に収納家具(クローゼットを片手で開ける。
  すると、最先端の意匠(デザインの旅行着や、夜会用の服が見えた。シャロンは体の動きと共に、思考が一瞬停止してしまったが、何事もなかったように収納家具(クローゼットを閉める。
  そして、持ってきた鞄から一冊の本を取り出す。何の気もなしに、ロゼッツの屋敷の書庫から取り出し、一目で気に入ったものだ。

  本の内容は様々な国の事を紹介しているもので、この連合王国ヴェルデクアは勿論、ブリチェ海を挟んで隣国のリピスフロー等、様々な国の事が書かれている。
  文は勿論、絵や図版で多岐に亘り説明されており、行ったことのない世界を描いている本は、とても興味深かった。この本を読んでいる間は煩わしい事から解放される気がした。
  本の内容や文体、図版や絵柄の書き方もとても気に入っていた。しかし、それだけではない。書庫で見つけた何処にでもある普通の本だというのに、この本は読めば読むほど瑞々しさが増すような――そんな気がするのだ。
  そう……まるで、本が喜んでいるように感じると言ってもいいのかもしれない。
  シャロンは椅子に深く腰掛けて、本を読み進めた。

  誰かが肩を揺らしている。それに気づき、目を開ける。すると、顔を覗き込んでいるメリッサの顔が見えた。
「お疲れの所申し訳ありません、御夕食が出来ました」
「あら……ごめんなさい、眠ってしまったみたい」
「無理ありません、長旅でしたから」
  そう微笑んでメリッサは、夕食が置いてある机の方へシャロンを導く。椅子に腰かけ夕食を取り始めると、メリッサが口を開いた。
  「お嬢様、明日の事を確認したいのですが」
  「えぇ、お願い」

  と言っても、あまり確認することはなかった。明日はアドルフの妹――ラヴィニアが訪れると決まっているのだった。
  つまりシャロンの叔母である。ラヴィニアはブリチェ海に面しているヴァイマン国の郷紳(ジェントリの家に嫁いだ。
けれども、母親を幼くして失ったシャロンのことを、何かと心配して駆けつけてくれるのであった。
  しかし、だからこそシャロンには人一倍厳しい一面もある。ラヴィニアの気遣いを、シャロンは有り難いと思っているからこそ、何の取り柄もない自分の面倒を見てもらっている現状に、素直に喜べずにいた。

  そう、シャロンには何の取り柄もない。

  外見は父方譲りの焦香の髪に、暗めの海緑色の眼。茶系のこの髪もシャロンは嫌ではなかったし、母親の目と全く同じではないが、似た系統の暗めの海緑色の眼も嫌いではない。アドルフもよく「その眼はリリスを思い出すよ」と微笑んでくれる。
  しかし、掛けている眼鏡のせいで、きつい印象を与えることもあるようだ。
  けれども眼鏡を取ったとしても、器量がいいわけではない。贔屓目に見たとしても中の中、つまり平凡な部類の顔立ちだと言うことは自分自身が重々承知していた。

  体型も女性らしい体つきをしているわけでもない――いや、むしろ貧弱と言ってもいいだろう。骨と皮だけと言うわけではないが、全体的に肉があまり付いていないのだ。
  よくメリッサに、「お嬢様は補正下着(コルセットが必要ないくらいに腰回りが細くていらっしゃいますね」と言われるが、それは見目麗しい女性や、女性らしい体型の持ち主だからこそ、もてはやされることである。
  シャロンのように顔立ちも、体型も良くないだけでなく、普段から顔色も青白く、全体的に暗い印象の娘にとっては、長所と受け取ってはもらえないだろうと思う。

  それに、趣味は読書だ。勉強をする淑女は良い顔をされないというのに、シャロンは勉強をすることを止める事はどうしても出来なかった。
  アドルフは、古い歴史のあるハミルトン家の伯爵でロゼッツ領を治めている。しかし、特に旨みのある土地ではないので、好んでこの地の伯爵になりたいと思う者は居ないだろうというのが、シャロンの見解であった。
  どちらかといえば、鉱山が沢山あり、開発が盛んなフィロハや、ブリチェ海を挟んで唯一異国に面しているため、貿易が盛んなヴァイマン辺りが狙い目だろうとシャロンは思っている。

  この二国の土地が、現在ヴェルデクア連合王国で旨みのある土地だろう。どちらかの領地の爵位(タイトル持ちになれるのであれば、ムストゥディーの伯爵位よりも位は下がるが、子爵や、もしかしたら男爵でもなりたいと思う者がいるかもしれない。
  つまりこのままでは、条件のいい婚約者を見つけるのは厳しい。

  無造作に食事を口に運びながら、思考を飛ばしていると、メリッサがこう告げてきた。
「お嬢様、また考え込んでいらっしゃるのですか、お嬢様は色々難しいことを考えすぎるのですから、ほどほどにしてくださいね?」
  そう言って、彼女は食器を下げてくれる。本当に、彼女には敵わない。
  久しぶりに会ったというのに、こちらの思考を読んでくる辺り、本当に侍女(レディースメイドの仕事に向いているのだろうと思う。ここで少しでも力をつけて、もっといい勤め先に転職出来たらと、シャロンは心から願っている。
  そうなったら少し……いや、大分寂しくなるが、彼女はここでとどまる様な能力の持ち主ではないのだ。このハミルトン家よりも、いい労働条件の勤め先があるだろう……
  いや、そうでなくてはならない。

  夕食を食べ終わり、浴室で身体を洗うことにした。とても疲れていたが、どうしても身体を洗いたかった。何処に居ても、落ち着くことは出来そうにない。しかし、湯でも浴びれば気持ちも晴れるかもしれないと思った。
  このお湯が、どうしようもなく我が儘で、何も言えずに勝手に落ち込んでいる自分の思いを洗い流してくれたらいいのに……そう身勝手に願う自分を恨めしく感じながら、シャロンは湯に打たれた。
  しかし、そんな願いが叶うことはなく、彼女は身体を拭き寝衣を身に着けると、沈んだ表情で寝台に身体を預け、目を閉じた。

  その夜、何回寝返りを打ったのか分からなかった。







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