朝日の光が、瞼の裏側まで真っ白に染め上げた瞬間――シャロンはぱちりと目を開けた。
目を開けたということは、眠れたようだ。いつ眠ったのかは分からないが、もう朝だと言うことは
このまま眠ったまま起きなくてもよかったのに……と考えている自分に気が付き、シャロンは動揺した。なんという事を考えてしまったのだろうか――上流階級である自分が考えてはいけないことが、脳裏を過ぎってしまった。
それを自覚すると同時に、胸の辺りが疼いた。その疼きは胸からあふれ出し、身体全体に痛みを走らせる。じわじわと身体を焼くように走るそれを、音が鳴りそうなほど頭を振る事によりなんとか誤魔化す。
そして、何事もなかったかのように眼鏡を掛けると、メリッサを呼ぶ。顔を洗ったり、服を着替えたり、髪を結いあげてもらうなどの身支度を終え、朝食を摂るために食堂室に向う。
食堂室に着くと、そこには父のアドルフが腰を掛けて待っていた。
「おはようございます、お父様」
「おはようシェリー、昨日は長旅ご苦労だったね、出迎えが出来なくて申し訳なかったよ」
そう微笑みかけてくれたアドルフは、いつも通り穏やかで、優しい。そんなアドルフの様子を見て、今回は少しでも負担を減らさなければと、一層思うのだった。
いつも通りフットマンに給仕をしてもらう。しかし、朝食の味が全然分からない。
真正面の椅子に座り、同じく朝食を穏やかに摂っているアドルフの様子からすると、きっと味が分からないのは自分だけだろうと思った。
なんとか食事を飲み込み、正面に目を向けると、アドルフは食事を終えていた。シャロンを待っていてくれたらしい。
「今日も私はすぐに出かけることになっているから、ラヴィニアが来たらよろしくと伝えてくれ」
アドルフは微笑みを崩すことなくそう言うと、すぐにその場を後にした。
なんとなく、取り残された寂しさを感じる。扉越しに忙しない様子のアドルフを見ると、やはり、母が今も元気でいてくれたらよかったのにと、願わずにはいられなかった。
きっと母だったら、忙しい様子の父に気が利く言葉を掛けられたに違いない。そうしたら、
こんなことを考えていても仕方がない。叔母が来るまで、勉強でもして先生に分からない事を訊いておこう。
食堂室を出て、そのまま階段を上がる。すると、踊り場に美女の肖像画が飾っているのが目に入った。
この描かれている美女こそが、母親のリリス=ハミルトンだった。艶やかな黒髪に、女性らしい曲線を描く肢体。健康的でいて、色白な肌。そして、一番目を引くのが華やかな容貌である。
いつ見ても額縁から飛び出してきそうなほど、シャロンのおぼろげな記憶の中の母と瓜二つだ。
目の色だけがシャロンの瞳と同じ海緑色だ。しかし、シャロンの目は暗い海緑色だが、母は鮮やかな海緑色だった。しかし、それ以外は全くと言っていいほど、共通点がないのであった。この肖像画を見ていると、本当にこの人の子供なのだろうかと、疑いたくなってしまう。
しばらく、見入られたかのように肖像画を見つめていたが、シャロンはふと我に返ると、勉強部屋まで行って、机に向かい始めた。一時間ほど経ち、何とか終わらせることが出来た。しかし、当たっている自信がない。先生に後でちゃんと出来たのかを確認してもらわないといけない。その時、扉をノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
そう声を掛けると、「失礼します」というメリッサの声が聞こえた。
「お嬢様、ラヴィニア様がいらっしゃいました」
シャロンは軽く服を確認し、深呼吸すると、ラヴィニアの待つ応接間へと向かった。
メリッサが、扉を開けてくれる。ラヴィニアは、慣れた様子で椅子に腰かけ、優雅に待っていた。
シャロンとと同じ焦香色の髪を、きっちりと結い上げ、さり気無く最先端の意匠を取り入れた衣服を身に着けているその姿は、とても良く似合っていて、堂々としていて……
シャロンは、このような女性が身内で嬉しいと思う反面、彼女とは正反対の自分の様子に、姪として申し訳なさを感じた。
「叔母様、お忙しい所申し訳ありません。今日もよろしくお願いします」
シャロンは
「では、私はお飲み物等を用意するように伝えます」
「大丈夫よ、メリッサ。貴方がシャロンを呼んでいる間に頼んだから、それよりも貴方も座って頂戴」
そう言われたメリッサは辺りを見回し、座る場所が一か所しかないのを確認すると、恐る恐るシャロンの隣の椅子に腰かけた。その様子を、ラヴィニアは微笑ましく眺める。
「別に気にすることはないわ、ここには私たちしかいないのだから」
扉がノックする音が聞こえる。どうやら紅茶が届いたようだ。
ラヴィニアが即座に「入って頂戴」と声を掛ける。その声を合図にして扉が開き、フットマンが紅茶と茶菓子を運んできた。フットマンが退出するのを、ラヴィニアは横目でちらりと確認すると、再び口を開いた。
「では、さっそく本題に入りましょうか」
ラヴィニアが今回午前中から訪れたのは、社交界に入りたてのシャロンが――と言っても内輪のものであって、
侍女としてメリッサも随行するが、メリッサもまだまだ見習いである。そのため間違いを指摘するのが難しいため、一緒に確認をするのを兼ねている。
シャロンの叔母であるラヴィニアは、今シーズン中シャロンを手助けしてくれるのだ。
しかしラヴィニアは、普段からハミルトン家の女主人のやるべきことも、定期的に来て面倒を見てくれている。普段からお世話になっていると言うことである。
そんな状況でも彼女は、表向きにはそうではないが――一部の貴族の間で風当たりの強い、
未だに成金上がりの平民と影で罵っている貴族が居るのにも拘らず、その様なことを気にも留めずに、徐々にではあるが、義叔父と二人三脚で確実に事業を拡大し、成功を収めているのだ。
ゴールウェイ家は、貿易商を営んでいる。そのため様々なものを扱う。そのお陰で、ハミルトン家にも最先端の流行の物が安価で入り易くなった。
今使っている机や椅子もゴールウェイ商会から購入した物で、流行に合っていながら、この屋敷の持ち主が気に入るような意匠の物である。
これだけでも、ゴールウェイ家の実力が分かるというものだろう。このままいけば、社交界で無くてはならない存在になるのも時間の問題だとシャロンは思っている。
そう思えば思うほど、シャロンは父や叔母に恥をかかせる訳にはいかないと、より一層思うのだった。
しかし、シャロンの味覚は、気を引き締めれば引き締めるほど、感知しなくなっていく。けれどもシャロンは、それも自分が弱いせいだと考え、機械的に紅茶や茶菓子を口に運ぶ。
ラヴィニアは、自分の姪がそこまで気を張りつめていることを知ってか知らずか、話を進める。
「今日は、モークリー家のヒスピポネー子爵夫人を訪問するわ」
シャロンはそれを聞いてほっとした。
モークリー家は、父の友人であるヒスピポネー子爵が、現在取り仕切っている。そして、シャロンの数少ない友人の家でもある。
きっとシャロンが余計に緊張しないだろうと踏んで、今シーズン最初の訪問先に選んでくれたのだろう。
「有難う……ございます」
シャロンは本当にこの人には、頭が上がらないと痛感するのだった。