序章  現れた真夜中02


  シャロンは少年に手を引かれ、小走りになっていた。
  頭の隅で高いヒールの靴でなくてよかったと思いながら、彼の小さい背中を眺める。何度思い返しても、思い当たる人物は見当たらない。

  こちらの屋敷の子でないとするならば、自分の手を引いている少年は一体誰なのだろう?
  いつの間にか、彼は足を止めていた。手を引っ張られているシャロンもつられて止まる。少年は迷うことなく、目の前にあるドアノブを掴み、部屋に入った。シャロンも半ば引きづられるようにして入る。
  入ってしまった部屋は、机や本棚があり、寝台(ベッド収納家具(クローゼットがない様子から、書斎だろうと見当がついた。
  折角今回は何事もなく終わると思ったのに、また失態をしてしまった。早くこの少年の要件を聞いて、早く何とかして元の場所まで戻らなければ行けない。
  シャロンは逸る気持ちを抑えながら、少年に向き直った。

「どうして私をここまで連れて来たの」
「おねいさんと、誰にも邪魔されないでお話ししたかったんだー」
  少年は無邪気に笑う。それを見た時、何故が再び背筋に悪寒が走った。
  何故か先程から、この少年の無邪気としか言いようのない微笑みを見ると、なんだか、何か悪いことが起きそうな気がする。けれどもそれは、きっと今回も上手く社交を切り抜けられない可能性が出てきたからだろう。
  こんな少年のせいにするなんて、私はなんてひどく冷たい性格なのだろうか。

「坊や、貴方のお名前はなんていうの?」
「あのね、おねいさんは大切なものある?」
「大切な物?」
「うん、大切なもの。ボクね、大切なものを探してるんだ」

  どうやら、少年は話を聞く気がないらしい。仕方ないので、彼の話を聞くことにする。
  早く戻らなければいけないが、彼はこちらの話を聞いてはくれないのだから、早く彼の用件を済ませてしまうしかないだろう。

「それがね、どうしても欲しくて、やっと見つけたのになくなっちゃったんだ」
「そうなの、それは困ったわね」
「うん!」
  少年は、ニコニコしている。彼は大切なものがなくなった話をしているはずだというのに……
「でもね、手掛かりが見つかったんだよ」
「手がかり?」
「うん、教えてもらったんだよ。おねいさんが持ってるって」
「えっ?」
「『真理の鍵』持ってるんでしょ」

  シンリノカギ?  一体何をおっしゃっているんでしょう。そうシャロンは胸中で問いかけた。勿論答える者は居ない。
「あのね、ごめんなさい。私分からないわ、聞いたことないもの。きっと間違いじゃない?  違う人が持っているとか……」
「それはないよ、だってそう聞いたんだもん!」
「ごめんなさい。本当に知らないの、聞いたこともないの。だから」

  再び、シャロンが謝ろうとしたとき、少年は何か思いついたらしく、声を上げた。
「そうだ、おねいさんのお家に連れて行ってよ!  そしたら、ボクが探すよ」
「わ、私の家に!?」
「うん!  ボクが探すよ、いいでしょ?  これから探しに行っても」
「あのね、もう夜なのよ。貴方のお父様もお母様も心配するわ、明日にしましょう、ね?」
「ダメなの、急がないと。早くしないと……今すぐじゃだめ?」
  自分の部屋だけならば、探してもらっても構わないが、流石に今すぐと言うのは無理がある。何せもう深夜二時を回りそうなのに……

  そう、もう深夜二時になるのだ。

  そうだ、もうそんな時間なのに、どうしてこの子は起きているのだろう。少年に声を掛けられたことに気を取られてしまい、肝心な事を思い到らなかった。
  この時間まで使用人が、雇い主の子供を寝かせないで放っておくわけがなかった。
  では、どうして彼がこんな時間に一人なのだろう。漠然としていた嫌な予感が、固まり始めたその時……

「おねいちゃんが持ってるのは知ってるんだよ?  なのにどうして渡してくれないの」
  シャロンの思考を切り捨てるかのように、男の子がポツリと呟く。彼の言葉は空気を瞬く間に冷やし、シャロンの精神を凍らせてようとしていた。
「おねいちゃんが渡してくれたら、こんなことしなくて済んだのに……もう、あの子が来ちゃうよ。だからこうするしかないんだ」

  あの子?  前方からシャロンの顔擦れ擦れに、灰銀色の何かが飛んできた。
  ナイフだ……ナイフから視線を外すと、前方にいつの間にかシャロンに狙いを定めている女性の姿があった。
  物音一つしなかった……いや、前からナイフは飛んできたこと自体がおかしい。何故なら、前方には壁しかないからだ。なのにどうしてこの部屋に居るのだろうか?
  普通なら後方からしか襲えないはずだというのに……
  シャロンは無意識に、自分の出来る限りの速さでドアを開けて、その部屋から出た。

  本当にヒールの高くない靴を履いていてよかった。
  まさか、よく分からない理由で襲われるなんて思わなかった。
  自分には、何の身に覚えがないというのに……自分が上流階級の家に生まれたからだとか、そういう理由でもなさそうだ。
  よく分からないままに、殺されそうになっているということが、恐ろしい。
  ただただ、走る。
  しかし――誰ともすれ違わない。それがまた一層、シャロンの心を不安に駆りたてていた。
自分の足音しかしないのに、鋭い速さで物が何度もシャロンの横を通り過ぎていく。
  そう、先程ちらりと後ろを見てしまった瞬間、分かってしまったことがある。
  相手は浮いていた。浮いていたのだった。僅かにだが、確実にだ。
  自分の目は可笑しくなってしまったのだろうか。
  恐怖のあまり幻覚を見ているのかもしれない。
  きっとそうだ。

  相手に追われるまま来てしまったことが仇となったのだろう。もう最上階の廊下の奥までもうすぐだ。もう逃げ場はない。
  そう思った瞬間、足に何かが当たり、姿勢を崩し、そのまま倒れてしまう。
  元々体力があるわけでもない。ここまで走れたこと自体、褒められてもいい事なのかもしれなかった。――こんな状況でなければ、の話だが。

  シャロンを追ってきた女性は、無表情でシャロンを見ていた。まるで物でも眺めるような目だ。
  壁にこれでもかと言うほど背中をつけ、息を荒げているシャロンとは対照的だ。
「貴女からは、悪魔の気配がします。それこそが『真理の鍵』を持っている証拠です。早く渡してください。そうすれば命までは頂きませんので」
  彼女の言っている意味が分からない。分かったことは彼女の存在感がとても希薄だと言う事だ。彼女が動いたり話したりしていなかったら、よくできた人形だと思っただろう。
「私は……何も知り、ません。信じ、て頂けな……いのなら、私の家を調べても、構いませんわ」
  まだ息は荒く、話す事は辛いが、出来る限り毅然と威圧的にそう告げる。シャロンには、何の心当たりもないのだ。そんな物を欲しがられても困る。
「それでも分からないから訊いているのですが」
「なら、ないのでしょう」
  信じられない!  この人は、家にまで押し入ったらしい。家に入られたことにも勿論、不快感が込み上げてくるが、それよりもそこまでして探しているというのに、諦めようとしないことに不気味さを感じる。シャロンが今までそんなに何かを欲しいと思ったことがないから、分からないのだろうか?

  いや、そうではない。この人たちがおかしいのだ。

「もしかしたら、身体に仕込んでいるのですか」
  そう呟くように言うと、左手でシャロンの頭を掴み、ナイフを振り上げる。
  シャロンは反射的に頭をずらし、顔を抱きしめるようにして目を瞑るが、暫くしても何の痛みも感じないことを疑問に思い、恐る恐る目を開けた。
  その時、はらはらと顔や肩を、何かが滑るように落ちて行ったのが分かった。落ちたものに目をやると、それは自分の髪だった。痛みはなかった。
  意外でもあり、心を抉る仕打ちに、シャロンが呆然としていると、再び鋭い灰銀色が揺らめいた。
  このまま行けば、確実にシャロンの心臓に突き刺さるだろう。
  それがシャロンに迫る瞬間、何か……音がした。
  いや、音ではない。そんな生易しい物ではない――衝撃だった。
  耳を切り裂くようなそれが襲い掛かり、風、土煙、硝子に木片等々――様々なものが舞い上がったと思った一瞬、シャロンの命を狙おうとしていた者は、いつの間にか宙を浮いていた。いや、放り出され、壁にぶつかった。
  そして、灰銀色の凶器は、シャロンが背を預けている壁に刺さる。
それにほっと息を吐き、ふと視線を上げると、黒ずくめの青年が、先程までシャロンを殺そうとしていた女性を追い詰めている所であった。





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