マリーの作った料理で英気を養い、与えられている部屋へと戻った。明日こそ、あの探偵に相談に乗ってもらおう。そのためにも、自分が分かっているところとそうでない所を明確にし、ちゃんと説明出来るようにしなければならない。
折れそうな気持ちをなんとか奮い立たせ、シャロンは机に向かう。その時、机の上に見に覚えのないものがあることに気づいた。
それは本である。シャロンがレスチャーから貰った本ではない。ここに来る時には、本を持ってきた覚えはない。
自分が居ないときは施錠しているため、誰かが物を置くことなど無いはずだ。キャナダイン夫妻は多忙だし、マリーもそうだ。
そもそも、三人ともシャロンに黙って部屋にはいるような人物ではない。手にとって見れば、詳しいことが分かるだろう。けれど、その本を手に取る勇気がなかった。
きっと疲れているから、幻覚が見えているのだ。そう自分に言い聞かせ、まだ早いが机に目を向けないようし、就寝することにした。
朝がやってきた。頭が徐々に覚醒していく。それと同時に、いきなり現れた本について思い出した。
シャロンは、ゆっくりと寝台から起き上がる。そして、意を決して机に視線を向ける。やはり、見覚えのない本は違和感なく――そこにあった。自然とため息が漏れる。
これ以上現実逃避をするのはやめよう。問題を先送りにしても、後々困るのは自分なのだから……
身支度を済ませ部屋から出る。朝食を頂き、夫妻を見送った。そして、使わせて頂いている部屋の掃除も済ませる。
そうなると、普段ならば勉強する時間である。しかし、あのいきなり現れた本に立ち向かうには、まだ心の準備が足りなかった。
また舞踏会のときのように、何か良くないことが起きてしまうのではと、考えても仕方のないことが頭を過ぎる。
本当に自分は、気持ちの切り替えがうまくないようだ。なってしまった事を、とやかく言っても仕方ないではないか。代わる代わる言葉を変えて、自分を慰め不安を押し殺す。けれど、瞬く間に違う不安が襲う。
本当に自分が嫌になる。こんな気分では勉強も手につかない。マリーを手伝おう。気持ちを切り替えるため、何か手伝えることがないかを尋ねた。
「シャロンさん、それは有難いですが、お勉強はよろしいんですか?」
この時マリーの表情が曇ったのを、シャロンは見逃さなかった。
「えぇ、ちょっと手詰まりでして」
「では、二階の廊下を掃いていただけますか」
「分かりました」
掃除用具を持ち、二階へ向かう。掃除することにも最近は慣れてきた。自分の手で廊下が綺麗になっていくのを見ると、心も晴れやかになる気がする。
二階の廊下を掃除し終えた。終わったことを伝えようと、階段を下りる。しかし姿が見えない。何処に行ったのだろう。
その時、玄関が開く音がした。玄関に向かうと、マリーが戸を閉めている。手にしているものを見ると、玄関の掃除をしていたようだ。
「マリーさん、二階の廊下の掃除は終わりました」
「ありがとうございます。では、少し休憩しましょうか」
マリーはそう微笑んだ。けれど、その微笑みにはどこか陰がある気がする。シャロンの先入観のせいだろうか? お昼前のこの時間は、なにか他の仕事をし始める時間だ。
だが、掃除に慣れないシャロンを気遣い、休憩を申し出てくれたのだろう。その気持ちを無碍にしたくはない。
「はい、そうしましょう」
マリーはまだやることが少し残っているので、待っていてほしいと言い、その場を立ち去る。今が契機かもしれない。マリーに何もかもやらせるのは申し訳ない。彼女の仕事を増やさない程度に、出来る限り準備をしよう。シャロンはお湯を沸かし、茶器を用意し始めた。
「こちら全てシャロンさんが用意してくださったんですか」
戻ってきたマリーは、いつもより目を大きく開け、この光景を眺めている。何か可笑しなことを、やってしまったのだろうか。
「ごめんなさい、お仕事を増やすようなことをしてしまいました?」
マリーが中々来ないので、見よう見まねでお茶の用意をしていたのだ。手順はちゃんと叩き込んだつもりだ。でも味に関しては、はっきりいって自信がない。
「いえ、そういうことではないんです」
では一体何に関して、驚いたのだろう。シャロンは椅子を引いて、マリーに座るよう促した。しかしマリーはそのまま、その場から動こうとしない。
「お座りになってくださいますか?」
二回目の声掛けで初めてマリーは頷き、椅子に座ってくれた。まさか紅茶を自分で淹れる日が来るなんて、思いもよらなかった。
「頂きます」
マリーがカップとソーサーを持ち、紅茶を飲む。メイドはいつも、お茶を運ぶとき緊張しているのだろうか? シャロンは、自分の心臓の鼓動が、いつもより早いのを感じていた。
「味は……だ、大丈夫?」
「そんなに緊張なさらなくても大丈夫ですよ、そんなに見つめられたら、私まで緊張しそうです」
マリーがそう微笑む。その自然な微笑で、マリーの可愛らしさが一層際立つ。漆黒の髪や肌が、いつもより輝いて見えた。
「美味しいですよ、でももう少し蒸らしたほうが、もっと美味しくなります」
「良かった……」
人に勧めても大丈夫なようで安心する。
「なんだか、申し訳ありません。シャロンさんはお客さまなのに、色々させてしまって……」
「気にしないでください、私が勝手にやりたいといったことですから」
そう、シャロンはやりたいと思ったからしたことなのだ。だから、マリーがそのことで申し訳ないと思う必要はない。そうだ、今なら言える。
「私、何かマリーさんに、ご迷惑をおかけするような事をしているでしょうか」
「何故、そのようなことを?」
マリーは怪訝そうだ。
「この頃マリーさん、気がかりなことがお有りのようだから、私がご迷惑をおかけしたのかと思ったんです」
「いえ、そのようなことはありません。私が何か可笑しなところがあっても、お気になさらないで下さい」
「では、他にお悩みが?」
「……そういうわけでは」
「最近来た私が言うことでもないとは思うんですが、マリーさん、寂しい思いをしてらっしゃらないですか?」
「……すいません、なんだか知らず知らずのうちにご心配をご心配をお掛けしたようで」
「いえ、そういうわけでは」
「少し、最近家族のことを思いだしただけですから」
「そうでしたか……」
それ以上はなにも訊けなかった。シャロンは、幼い頃から乳母や子守ではなく、メイドに面倒をみて貰ったこともある。
そのため彼女達が生きるために、慣れない環境に四苦八苦しながら生活しているのを間近で見ていたこともある。だが、それだけだ。
シャロンは見ていただけで、実際に経験したわけではない。母親を幼い時に亡くしているが、それも彼女達の苦労に比べれば、些細な事だ。
故郷の家族のために、自分の身の回りを整えるためのお金すら取らずに、仕送りをしていたり、貧困が元で家族と生き別れたり等。
彼女達はシャロンには分からない苦労をしているのだ。きっとマリーもここまで来るまで、色々大変だったんだろう。
なに不自由なく暮らしてきたシャロンが、掛ける言葉はない。
ただそれだけは分かった。