第一部  実践される知識02


  シャロンは借りている部屋の椅子に腰掛け、考えをめぐらせていた。今この家にいるのは、シャロンだけである。夫妻は仕事のため事務所に、マリーは買い物に出かけている。

  最初はマリーの手伝いでもしようかと思った。だがその前に、自分の身の安全をどう守ればいいのか――考えていなかったことに気づいたのだ。
  二人で外に出ると、マリーが危ないかもしれない。シャロンのそばにいること自体、危険が伴うのだから、外出するとなれば危険度は高まるだろう……
  襲った者たちが狙っていると思われる『本』は、今手元にはない。しかしそれは、襲われた時だって同じなのだ。
  早急に対策を講じなければ……

  けれども考えれば考えるほど、どうすればいいのか分からなくなってしまう。本当は誰かに相談したい。しかし、こんな荒唐無稽な話を信じる人がいるだろうか?
  それに誰かに話すと言うこと自体、その人を巻き込んでしまうことになるだろう。関係ない人を傷つけたくなかった。
  しかし、全く名案が思い浮かばない。考えても焦るばかりでなにも思いつかない。シャロンはふと、今まで自分の意志で、自分の行動を決めていなかったことに気がついた。
  だって、仕方なかったのだ。皆、シャロンに立派な淑女(レディになって欲しいと思っていた。物心ついたときには、言われなくとも相手の要望に応えるのが当たり前だった。

  ……私は誰に言い訳しているのかしら、こういうときは、一回落ち着かないと。

  そう自分に言い聞かせ、椅子から立ち上った。目を瞑り、胸の前で両手を握り締め、深呼吸を繰り返す。
  そうしている内に、自分を襲った女性について、青年が「あれは人形だ」と言っていたことを思い出した。人形……彼は術者の言うことをきくといっていた気がする。
  『鍵』自体のことも気になるが、まずは自衛が出来なければ意味がない。シャロンは便箋を取り出し、図書館に行ってきますと書いて居間の机に置いた。その時、マリーが外出する時は施錠をお願いしますと言っていたことを思い返す。身支度を整え合鍵で施錠し外に出た。

  図書館へ入っていく人々は案の定というべきか、身なりがちゃんとしている人が多かった。勿論男性ばかりが入っていく。図書館は社交場として使われることが多いので当然だろう。
  やはり王都でも有数の規模が大きい図書館は違う。この様子からすると、紹介状や入場料が必要なのは察せられた。
  上流階級の女性達は、何ヶ国語も勉強しなければならないが、あまり勉強することを由とはされていない。なんだか矛盾する話ではあるが、そうなっているのだ。
  こういう時シャロンは、男女の差を否応なしに実感させられる。勢いでここまで来てしまったため、そこまで考えが回らなかった。図書館の入り口はもうそこだ。少しでも情報は得たいが、人目につくのも避けたい。
  1、2分もしなかっただろう。自問自答し、今日は帰ることに決めた。もう少し作戦を練ればよかった。情報は得られなかったが、図書館の様子が分かっただけでもよしとしよう。図書館には通うことになるのかも知れないのだ。やはり目を引く事は避けたい。

  踵を返し、馬車の停留所まで戻ろうとしたその時――

「まさか『鍵』の持ち主を、この世界で見かけるとは」

  シャロンは全身が強張ったのを感じた。

  やはり、もっと準備をしてくればよかった。
  しかし、後悔してももう遅い。敵かもしれないし、そうじゃないかもしれない。
  恐る恐る振り向く。そこにはトップハットにコートを合わせた、シャロンと年齢の変わらないと思われる、黒髪に紫の瞳の若者が居た。
  紫の瞳の人を見るなんて初めてだ。シャロンは自分が緊張感のないことを思ってしまったことに内心呆れながらも、緊張感を崩さないように意識した。

「あぁ、すいません驚かせてしまいましたね」

  若者は本当にそう思っているのか怪しいと思うほど、淡々とした口調で名刺を差し出してきた。
「探偵さんをやっていらっしゃるのですか」
  名刺にはパデタル区探偵事務所レスチャー=スペルマンとあった。住所を見ると、夫妻の弁護士事務所とそう遠く離れているわけではなさそうだ。

「えぇ、まぁ、こちらの世界ではそうです」

  なんだか気だるげな物言いだ。その発言で、青年と同じようにシャロンが知りたいことを知っているのではないかと思った。偶然にしてはタイミングが良すぎる気もするが、今は少しでも情報がほしい。それに、レスチャーの様子に気圧されている自分も居る。彼に何か訊いて見ようか……

「ここでお会い出来たのも、何かの縁です。お茶でもいかがですか」
「はい」

  レスチャーの言葉に驚きながらも、反射的にそう答えていた。若者に誘われるままに訪れたのは、パブリックハウスである。
  勿論、シャロンは一度も入ったことがない。店内は賑やかな雰囲気で、昼食を食べている人やビールを飲んでいる人等さまざまだった。
  店内に入ると、すぐに「探偵の旦那じゃないですか、今日も依頼で? 」と店主らしき大柄な男が、レスチャーに声をかける。

「あぁ、いつもの場所は開いてるか」
「勿論、旦那のために空けてありますよ」
「昼食はお取りになりました?」
  レスチャーが小声で問いかけてくる。
「えぇ」
  シャロンはマリーと昼食を食べてきたばかりである。

「僕はまだ食べていなくて、すいませんがこちらで食べてもいいですか」
「えぇ、大丈夫です」
「ドム、その肉で腹の膨れるものと、お嬢さんには軽いものを頼む」
「はいよ」

  10分もしないうちに、シャロンにはティーセット一式とスコーン。レスチャーの前には野菜がたっぷりの厚切りのステーキが運ばれてきた。
  早く食べ物が届いてよかった。シャロンはこんなときだと言うのに、初めて入った庶民の憩いの場とも言えるパブに興味が尽きないのだった。このまま注文してもらったものが届かなかったら、レスチャーを質問攻めにしてしまうところだ。
  そんなことをすれば、シャロンの素性が発覚してしまうかもしれない。それは避けなければ。ほっと一息つき紅茶を飲むと、温かな気持ちになれた。   レスチャーを見ると、彼はステーキを細かく切って、野菜と肉を纏めてフォークに刺して食べていた。程よい焼き加減の肉からは、透明な肉汁が流れ出る。これは食べ応えのありそうな肉だ。

「僕は人間じゃないんですよ」
「はい?」
  いきなり話し始めたレスチャーとその内容に驚きつつ、思わず聞き返した。
「悪魔なんです」
「悪魔と仰いましたか?」
「はいそうです」
「……」

  シャロンの気がかりをよそに、レスチャーは話を続ける。
「言っておきますが、僕はあなたに危害を加えるつもりはありませんよ、信じられないと思いますが」

  レスチャーがどういう意図で話しているのか全く分からない。
  本当かどうか分からないが、素性まで話してくれている。何でもいいから訊いた方がいいのではないか。いまは少しでも自衛につながるような情報がほしい。その情報をもとに、色々調べるのも手だ。そう考え質問することにした。

「訊いてよろしいですか」
「どうぞ」
「なぜ私が『鍵』を持っていると思ったのですか」
「気配ですよ」
「気配?」
「この世のものではない物を、持っていらっしゃる気配がしたので」
「そのようなものは他にもあるのではないのですか」

  シャロンは青年の話を思い出していた。彼が言うには、世界は無数にあるらしい。ならば、この鍵のように不思議なものも多数紛れているのではないか。
  だとすると、なぜ鍵だと断定できたのだろう。それにいま鍵を持ち歩いているわけではない。鍵は家に置いたままだ。

「確かにこの世の中には、この世のものでないものも時々紛れ込んできます」
  推測はあっている様だ。
「僕は情報を集めるために『こちら』に来ているんです。『鍵』の話も情報集めの最中聞きました。僕達の世界でも『鍵』の存在は秘されていて、知っているものの間でも情報が錯綜していますが、悪魔が作ったのではないかと謂われています。悪魔は知識を求める性質がありまして……自分や同族の利益になりそうなものがあると、本能で分かるんです。あなたを見て……なんとなくそう思ったとしか言えません。『鍵』の事は一般の悪魔の間でも都市伝説ものですし」
レスチャーは淡々と言い切ると、水を一気に飲み込んだ。

「貴方が悪魔だからそれに気づいたと仰るんですね」
「そうとしか言えません、申し訳ないですが」
「いえ、大丈夫です。では貴方達以外が分かる場合はありますか?」

  彼が直感でそう思ったのなら、ただここに居るだけでも気づかれる可能性があるということだ。けれども、『鍵』自体があまり知られていないのなら対策がありそうだ。

「そうですね、本能というか勘というか……そういうもので気づくことはないでしょう。悪魔以外では」
「そうなんですか?」
「貴女はいま実際に、『鍵』を持ってはいないですよね」
  そこまで分かってしまうのか。こちらのことは言いたくなかったが仕方ない。

「はい、何故そこまで分かるんですか」
「気配が薄かったので」
「薄いとはどういう?」
「先ほども言いましたが、僕達は情報を本能で集めています。ですから情報が沢山ありそうなものは分かります。『鍵』は情報の宝庫ですから、それを持っているとなれば、もっと気配は強いはずです」

  なんとも想像がつかない話である。情報の気配が読めるということでいいのだろうか。しかし、何か引っかかるものを感じる。シャロンからその気配がしたけれど薄かったのなら、鍵とは断定できないのではないか?  しかし、彼は断定した。どういうことなのだろう。
  シャロンが考えを纏めていると「大丈夫ですか」とやはり淡々とした声で言った。きっとこれが素なのだろう。

「すいません、私あの本がそんな力を持ったものだと言うことも、最近知ったもので……」
「そうなんですね、まぁそういうことですから、貴女を襲った奴らはすぐには襲ってこないでしょう」
「そ、そこまでご存知何ですか?」
  口を滑らせたと思ったが、もう遅かった。
「一応探偵ですから。ご心配なく、人間には知れていません」

  一体どんな技で、そこまで調べ上げたのだろう。シャロンは背筋に悪寒が走るのを感じた。
「僕は情報を集めるのが仕事ですから、どんなことでも調べるようにしているんですよ」
  こんなに話しているのに、いつの間に食べ終わったのだろう。厚切りのステーキが載っていた皿は、空になっていた。それはあの青年を彷彿させた。
「お近づきの印といってなんですが、こちらを差し上げます」
  渡されたのは一冊の本だった。

「きっと役に立つでしょう」
「あ、ありがとうございます」
  その本はとても厚く、読みきるまでに時間がかかりそうだ。
「出ましょうか」
「は、はい」

  シャロンが気づかないうちに、隣に来たレスチャーは椅子を引いてくれた。シャロンは頭の整理がつかないままに、レスチャーに見送られ帰路に着く。

  パブリックハウスでの代金を払わせてしまったと気づいたのは、就寝する前だった。





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