第一部  実践される知識01


  ブリュネベルの住宅区(ベットタウンと言われているヴォカロヤ区の建物も、階数が多いものばかりだった。普段暮らしている伯爵領(ロゼッツでは――国全体でいえることだが――土地を持っていることが一種のステータスのため、土地を沢山使う横に広い建物が多い。
  けれども都会ブリュネベルでは地方からの労働者が増えている。どんなに集合住宅を建てても、需要に供給が追いつかないほど土地が足りない。そのため地価が高く、階数が多い建物ばかりなのだ。

  しかし興味を惹かれたところはそればかりではない。都心から外れているといっても、都会は都会である。忙しい様子の町を想像していたシャロンにとって、この地区の様子は意外だった。 乗合馬車(オムニバスの客や、通りを歩く婦人。声を上げて商品を売るのに必死な街頭商人や、子ども達の姿などが見える。
  その穏やかな雰囲気に、緊張していた心が解されていく。初めて来た町に興味が尽きず、高揚する気持ちを必死にシャロンは抑える。なんとか青年の後に着いて歩いていると、3階建ての前に着いた。

  青年が玄関をノックする。その動作はまるで、友人の家を訪ねたかのように自然だった。
  パッと扉が開かれる。そこには小柄な夫人と、栗色の髪を三つ編みに結っているメイドの姿があった。この小柄な夫人がキャナダイン夫人だろう。
夫人は「お待ちしておりました」と出迎えてくれる。微笑んだときの笑い皺が印象的な夫人だ。年の頃は50才後半から60歳辺りだろうか。

  メイドとはいえ、いつまでも扉を開けさせるのも申し訳ないので、すぐに中に入った。
  メイドに客間に案内され、指定された場所に座る。「少々お待ちくださいませ」とメイドがその場を後にする。きっとお茶を用意してくれるのだろう。
  シャロンは自分よりも年下の少女が働いていることに、複雑な思いを抱いていた。この国で髪を上げて結い上げていない女性は、成人する前の少女か、一時の夢を売る女性達だけである。
  シャロンの周囲のメイド達は、年齢が低くとも今のシャロンの年齢とそう変わらない子が多かった。
  そのため実際にそういった子に会うのは、初めてである。しかし本で読むのと実際会うのとでは感じ方が全く違うと、シャロンは思った。

  それにしても、青年も夫人も来るのが遅い。どうしたのだろうか。扉が開く。そこには夫人の姿があったが、青年の姿はなかった。
「お待たせして申し訳ございません、私がヴィンセント=キャナダインの妻、ナタリー=キャナダインと申します」
  夫人がそう微笑む。その微笑に、緊張やこの現状に対する恐れが徐々に解されていくのを感じた。
「シャロン=ハミルトンと申します。よろしくお願いします。あ、あの彼は……」
  結局、青年の名前を訊いていなかったことを思い出しながら、シャロンは訊ねた。

「あらまぁ、ご存知なのかと思っていましたわ、用があると仰ってお帰りになられましたよ? 私もお茶でも如何ですか。と伺ったのですが、お急ぎのご様子で……」
「帰ってしまったんですか?」
「えぇ……一刻も惜しいといったご様子だったので」

  残念ですわと呟く夫人の姿を目に留めながら、胸中では、取り残される不安と、彼を警戒しないですむという安堵感、そして、得体の知れないあの少年への恐怖が湧き上がっていた。
  しかし、その思いを訴えるべき相手はもういない。あの青年を警戒しなくていいのだから、逆に良かったのかもしれない。

  ある意味、一番警戒すべきなのはあの青年なのだから……

  思ったよりも無責任な人だ。父が払ったであろう謝礼が、無駄になってしまったと思ったが、命が狙われないのなら安いものかもしれない。
  そう気持ちを切り替え、夫人と話していると、控えめなノックの音が聞こえた。

「奥様、お茶の用意が出来ました」
  先程のメイドの声だ。
「入っていいわよ」

  メイドは夫人の声で扉を開くと、紅茶とお菓子を用意してくれる。
  玄関では気づくことはなかったが、改めてメイドを見ると、とても可愛い子だと分かった。
  豊かな栗色の髪は二つに分け、三つ編みにしている。色白が健康的な肌に、ぱっちりとした暖かな茶色の目。さくらんぼの様な唇。
  黒のメイドの服ではなく、洋品店のカタログに載っている最先端の服を着たら、きっとどこの貴族の令嬢にも劣らない。けれども、この姿でも男性が放って置かなさそうだ。成人したら、求婚する人が後を絶えないだろうと安易に想像できる。
  いや、今も恋人になってほしいとよく言われているのかもしれない。それほど彼女は愛らしかった。挨拶し立ち去ろうとするメイドを、夫人は呼び止めた。

「紹介しておきますね。この子は私達の身の回りを整えてくれるマリー」
「至らぬ点はございますが、よろしくお願いいたします」
  シャロンは慌てて、席を立ち会釈を返した。
「こちらは私の従兄弟の娘さんのシャロンさんよ、ムストゥディー国からいらっしゃったの」
「こちらこそよろしくお願いします」
  どうやらメイドにも伝えないつもりらしい。徹底しているとシャロンは思った。といっても、キャナダイン夫妻はシャロンが社交パーティー中に襲われたという、事実しか知らないが……

「下がっていいわよ」
  その声でマリーは、静かに一礼し去っていった。
「本当のところは主人と私しか知りませんが、こちらではご自由に過ごして頂いて構いません。手狭ではありますが、ご自分のご自宅と変わらないように過ごして下さいね」
  夫人の暖かな声がシャロンの心に沁みた。

  しばらく世間話をした後、使う部屋の説明と普段の生活の流れを訊き、身の回りの整理をしていると、ノックする音が聞こえた。
「はい」
  そこにはメイドのマリーがいた。
「旦那様がお帰りになりました。夕食は旦那様のご帰宅の時間に合わせておりますので、一緒にお召し上がりくださいますようお願いいたします」
「あら、ごめんなさい。もうそんな時間なんですね。私も出迎えるべきだったのに、持ち物の整理に夢中になってしまって……」
「いえ、こちらこそお手伝い出来ず申し訳ありません」

  普段は夫人も弁護士事務所で、キャナダイン氏の秘書をしているらしい。そのため、彼女が一人でこの家の家事を執り行わないといけない。だから、そんな時間はないだろう。
  借りている部屋からマリーに案内されると、壮年の男性――きっとキャナダイン氏だろう――と夫人が座っているのが見えた。
  自分が一番最後だ。確かに自分は客かもしれないが、お世話になる身だ。家長であるキャナダイン氏を待たせてしまったことを、シャロンは恥入った。

「お待たせしてしまい申し訳ありません」
  無意識にそう言葉を吐いていた。
「お気になさらず、こちらこそお構いできず申し訳ない。シャロンさんもお疲れでしょう、挨拶がまだでしたね、私は……」
「ヴィンスったら!  挨拶もいいですが、料理が冷めてしまうではないですか。せっかくマリーが腕によりをかけて作ってくれたんですから、お話は後にしてください」

  シャロンがその会話に驚いていると、マリーが小声で助け船を出してくれた。
「旦那様は話し始めると、弁護士をなさっているせいかお話が長いんです」
「シャロンさん、こちらは私の夫のヴィンセントです」
「私の紹介はそれだけか?」
「時間はたっぷりありますから、昔話は後でお話なさってください」
「タリアは本当に手厳しい」
「よ、よろしくお願いします」
「ささやかですけれど、このディナーは私達の気持ちです。喜んで頂ければ嬉しいですわ」
  キャナダイン家では夫人が主導権を握っているらしい。
「マリー、早速最初の料理を持ってきて頂戴」
「畏まりました奥様」
  暖かなディナーが始まった。

  久しぶりに美味しい物を食べた気がする。寝台横になって、改めてそう思った。夫人はささやかな気持ちだと言っていたが、経験した中で一番楽しいディナーだった。
  こんなに楽しい時間を過ごしたのは、いつ以来だろう。キャナダイン氏の弁護士としての話や、若かりしころの武勇伝、夫人との馴れ初めの話等、話は多岐に渡り、夫人やマリーが話が長いと言った意味が分かった。確かに話は面白かったが、何回も聞いていれば嫌になるかもしれない。けれども、シャロンには興味深い話ばかりで新鮮だった。
  氏の話を夫人が嗜め、シャロンが相槌を打ちながら聞く。途中で夫人が「私が給仕をしますから、マリーにも食べさせて大丈夫ですわよね」という一言で、途中からはマリーとも話が出来た。

  その言葉でシャロンは戸惑ったものの、まだ1日も経っていないのに自分は客人としてではなく、家族のように接してくれたのだと思い、感激してしまった。マリーは、正式なテーブルマナーで、綺麗に食べていた。彼女は10歳のころから、キャナダイン家でメイドとして働き、最初のころは夫人が色々教えていたらしい。
「奥様には感謝しても仕切れません」

  マリーがそう言うと「私に感謝は?」と真顔でキャナダイン氏が言うので「旦那様にも勿論感謝しております!」と慌てた様子で言うのが年齢相応で微笑ましく、思わず笑ってしまった。
  いつもなら周囲の様子を無意識に考えながら話してしまう。けれども、思うがままに話して笑い合える空間は、自然と胸の奥から温かな気持ちを湧き上がらせたのだった。

  シャロンは自分が人見知りをしてしまう性質だということを、十分に自覚していた。なのにも関わらず、こんなに身構えることなく楽しく話せるなんて……
  きっとこれが夫妻だからこそなせる事なのだろう。アドルフの知り合いという前提があると、どうしても身構えてしまうが、今回は身構えることなく話せている
。   思い返してみると、一人で他家にお世話になるどころか、訪問するのも初めてだ。普通その方が緊張してしまいそうなものだが、普段よりも落ち着いている。どうすればいいのか分からなく困ることもあるが、挙動がおかしくなってしまうこともなく、自然に振る舞えている自覚があった。

  料理自体も本当においしかった。食材自体は、シャロンが普段食べているものに劣るだろう。
夫妻やマリーの気持ちがこもったディナーは、正式なコース料理で、洗練されているだけではなかった。
人が食べやすいように、食材一つ一つが丁寧に処理されていた。
見た目からは分からないが、口に入れた瞬間に違いが分かる、そんな料理だったのだ。

  シャロンはあまり社交の経験はないが、アドルフの話からどんなに立派な家でも、高級な食材を使っていても、料理人の腕一つで、良くも悪くも変わってしまうと言っていたことを思い出した。 きっとこれがそういうことなのだ。不安なことは沢山あるが、いい人たちでよかった。

  寝返りを打つまもなくシャロンは、眠りについた。





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