第一部  思わぬ、言葉02


  シャロンはただ、驚きで目を見張るばかりだった。何故エディスがここに居るのだろう。

  基本的には雇い主一家は表の区画、使用人たちは裏の区画に出入りする。表の区画というのは、雇い主一家が過ごす居住空間のことだ。そして裏の区画は、使用人たちが仕事をする空間である。使用人たちの寝泊りする場所も勿論この区画になる。
  しかしそうはいっても、使用人が表の区画に居るときはある。それは給仕などで仕事上立ち入る必要があるとき。そして雇い主一家から上級使用人を通し、呼び出されたときくらいだ。
  しかし主人たちは裏の区画に立ち入ることは、殆どと言っていいほどない。どんな環境で使用人が過ごしているのかすら、知らない事が当たり前なのだ。

  特に土地の余裕が比較的あるカントリーハウスの場合は、主人達の邸宅とは別に建てられている場合もある。使用人たちの寮などの生活空間自体が、切り離されているのだ。
  勿論タウンハウスの場合でも、線を引いたかのようにきっちりと決められているのが当然だ。

  普通、今の様なことは起こらない。

  そしてそれ以前に、シャロンはエディスに良くは思われていないはずだ。なのにどうして……シャロンの心境を知ってか知らずか、エディスは口を開いた。

「明日晩餐会に行くことになったから、私に着いてきなさい。時間になったらセルマに呼ばせるわ」

  シャロンの返答も聞くまもなく、エディスは扉をパシャリと閉めた。扉が閉まってようやく、エディスが来た事を認識できたシャロンは、エディスの言葉を頭の中で繰り返す。
  そしてやっと意味を認識したシャロンは、反射的に叫びだしたくなる衝動に駆られた。意思と反して侍女になってしまったものの、エディスの様子から他家などに随行するものは無いと思っていたのに!  シャロンの認識は甘かったらしい。周囲に誰も居ないことをいいことに、思わず頭を抱える。

  青年がもう少し遅く来てくれれば相談できたのに……

  シャロンは慌ててその考えを消し去る。

  駄目駄目よ、彼は私を殺したいと思っているのに。なんて事を考えてしまうのかしら……きっと、身近に話せる人がいないせいだわ。私には完全な味方なんて居ないのだから、しっかりしなければならないわ!

  シャロンは、自分にそう言い聞かせる。けれども不安が収まることは無い。

  せめてどの方の晩餐会か訊いておけばよかったわね……
  そう思ったが、後の祭りである。けれども実家が上流階級も顔を見せる洋品店ということになっているにしても、上流階級に詳しいと思われてしまうと、あまりよくない事態になるかもしれない。

  だがしかし、誰が主催しているのかが分かれば、対策が出来たかもしれない。それこそアドルフの交友関係と照らし合わせれば、その主催者がどういう立ち位置なのか、誰と仲がいいのか分かったかもしれない。
  それが出来れば他の招待客が分かっただろうし、自分の動き方が詳細に予想できたかもしれないのに……シャロンは自分の詰めの甘さに、胸にもやもやとした不快なものが広がっていくのを感じた。

  シャロンは今、エディスの侍女として晩餐会に随行している。
  紋章つきの馬車で主催者の邸宅に向かっている所だ。アイゼフェロー侯爵夫妻とエディスは前の馬車に乗っている。シャロンが今乗っているのは、随行する使用人専用の馬車である。奥様の侍女を務めるメーヴィスと向かい合う形だ。シャロンの耳に、不意にメーヴィスの声が聞こえてくる。

「そんなに緊張しなくても大丈夫よ」
「は、はい」

  頭では自分は招待客ではないと分かっているのに、行く場所を思うと緊張してしまう。自分の素性の事もあるので尚更だ。
  もしかして自分の素性のことがなく、ただの労働者階級のメイドだったら、緊張せずにいられたのだろうか?  シャロンは想像するが、自分が緊張しない状況を思い浮かべるのは難しかった。つくづく自分は社交に向いていないようだ。

  今回の会場に着いた。メーヴィスに習い、馬車から降りる。
  フットマンに案内されるときに、誰が主催の晩餐会なのか名前と爵位が聞こえた気がする。けれども良くは覚えていられなかった。
  今のシャロンは、何とか侍女としての仕事を果たすことで精一杯である。おぼろげながらもメリッサや、叔母であるラヴィニアに付いている侍女――メイドが代理をしているようだが――を思い浮かべる。それとマレット夫人に教わった作法もだ。
  今のところはエディスは勿論、アイゼフェロー侯爵夫妻に眉をひそめさせることは無い――とはいっても内心はどうか分からないが、顔に出ないのだからきっと及第点だろう。ここまでくれば後は待合室で待機になるはずだ。シャロンは人知れず、胸をなでおろした。

  シャロンの予想通りに使用人専用の待合室に通された。普段ならば興味深く、観察するところだが、そんな余裕は無い。フットマンがお手洗いの場所や、晩餐会の会場の場所を教えてくれた。
  長いすに腰掛けると、疲れを感じた。全身がざわめき、体に力が入らない。体の芯がふわふわとして、力を入れることも叶わなかった。いつもの事ながら、自分でも立っているのが不思議である。
  自分はただの侍女なのだから、別に緊張する必要は無いというのに……そう自分に何度もシャロンは言い聞かせる。しかし、それとは裏腹に心拍数は上がるばかりである。
  シャロンはメーヴィスにお手洗いに行く旨を伝え、その場を後にした。
  待合室から出ると人の気配が遠のき、シャロンは僅かに落ち着きを取り戻した。落ち着いたシャロンの耳に小さく、料理が運ばれてくる音が聞こえた気がした。きっとエディスは、令嬢らしく優雅に料理を食べているのだろう。その音の小ささが、シャロンの今の立ち居地を証明しているようだ。
  もしシャロンがあの時襲われなかったら、エディスと同じように招待されていたのかもしれない。あの音を鳴らしていたのが、自分だったのかもしれなかった。

  こんなことを考えても仕方ないわね。少しの間でもお手洗いに行って、落ち着きましょう。

  シャロンはフットマンに訊いたお手洗いの方向へ足を進めた。お手洗いで少しの間ではあるが一人きりになったことで、高ぶりつつある精神を静めることが出来た。シャロンは待合室に戻ろうとする。

  その時、シャロンの耳に聞いたことのある声が響いた。

「やっと見つけたー」

  シャロンが恐る恐る振り向くと、其処にはあの少年の姿があった。シャロンが友人に誘われた舞踏会で、襲ってきた少年である。シャロンの足は反射的に動いた。逃げなければいけない。早くしないと!

「なんで、おねいちゃんがあの子と一緒に居るの?」

  無意識にシャロンの足が止まる。
  その時――シャロンの脳裏に、少年が『おねいちゃんが渡してくれたら、こんなことしなくて済んだのに……もう、あの子が来ちゃうよ。だからこうするしかないんだ』と襲ってきたとき言った事や、青年に少年のことを話したときに起こった、地震のような現象などの光景が駆け巡った。
  今の今まで忘れていたが、少年のいうあの子は青年のことなのだろうか?  少年の思惑が分からない以上、どんな些細なことでも話すのは危険だ。たとえ何を考えているとしても、シャロン自身も話したくは無い。

  今回でよく分かった。

  シャロンは少年が怖い。もう関わりあいになりたくないのだ。少年の声を聞いた途端、襲われたときの恐怖が、この身に戻ってきたのが分かった。例えいい人だったとしても、襲われたときの恐怖は消えない。

「僕ずっとおねいちゃんを探してたんだ、このままじゃあの子に殺されちゃうよ?  今日はおねいちゃんとお話しにきたんだ。僕があの子を殺してあげる、二人でお話しよ?」

  シャロンは走った。
  どうしてこういう社交パーティーのときは、こういうことが起きるのだろう。
  シャロンは人が絶対居る待合室へ向かった。
  周囲の人には悪いが、騒ぎになってしまっても証人はいたほうがいい。
  流石に少年も大事おおごとに出来ないはずだ。

  そう思い、急いで足を動かしているというのに、待合室に着かない。
  ……また迷ってしまったらしい。迷子になるのはこの生活に入ってから二度目である。
  前回は青年に移動させられ、今回は混乱していたとはいえ悔しい。
  いつも気持ちばかりが空回りしているようだ。

  早く戻らないと……

  少年が追ってきているのかそうでないのか、判断が付かないが、動いていないと不安だ。しかし一回落ち着いて自分の立ち位置を判断しないと、もっと迷ってしまう。
  焦りばかりが募る。シャロンの混乱がますます極まっていく。
  シャロンの脳で思考が目まぐるしく動いているその時、いきなり手がシャロンの目の前ににゅっと現れた。
  シャロンの左手首がつかまれる。どこかで見たことのあるそれに抵抗する間もなく、シャロンはその手の主の許に引き寄せられた。

「悪い、遅くなった」
青年である。その姿は彼らしい格好だった。
「あの、どうして……」
「何もされてはいねーな?  でも顔色悪いな、悪かった」
青年は眉根を寄せ、シャロンの顔を覗き込んでくる。
「い、いえ」

  そういえば青年は護衛を引き受けてくれているのだった。メイドとしての仕事に集中していたため、頭から抜け落ちていた。それにしてもそんな表情で見つめられると、今までの発言の事を思っても、彼に頼りたくなってしまう。
  彼とは契約を交わしただけの間柄だというのに……これも気持ちが落ち込んでいるせいだろう。しばらく経てば収まるに違いない。

「お前の立場では、流石にこのまま帰るわけにはいかねーか」
  彼の言うとおりである。使用人の立場で主人より早く帰るなんて言語道断だ。青年は待合室への行きかたをシャロンに教えてくれた。
「あの、あなたは」
  シャロンは自分の言おうとした、どうなさるんですか?  という言葉を、シャロンは飲み込んだ。
  どうしてこんなことを訊こうとしているのかしら?  別に彼がどうしようと……いいえ、そうではないわね……彼が誰かに危害を加えたら困るもの。いえ、別に話の流れから可笑しい事ではないのでは?
  自分の不意な迷いに、シャロンはそう結論付けた。

「俺?  お前が帰るの見計らって帰るわ」
「そうですか……」

  青年のその言葉に、再び不可解な感覚がシャロンを襲う。けれども今はそれどころではない。

  彼の姿がない事が使用人仲間に発覚しなければいいですけれど……そう脳裏を過ぎったが、そのことに関して不安な気持ちに駆られることは無かった。
「ほら、早く行けよ」

  シャロンは彼に見送られながら、待合室まで向かった。待合室の扉を平静を装い開けて、先程も座った長いすに座る。周囲の様子を伺うと、そんなに時間は経っていなかったらしい。
  シャロンにとってはとても長く感じたが、その様子を見ると現実に帰ってきたのだと実感できた。しかしそれと同時に、今まで忘れていた疲れが戻ってきたのを感じた。

  このまま眠ってしまいたい。

  その気持ちに流されないように、シャロンは背筋を伸ばした。





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