青年が何のためにこのタウンハウスで働くことにしたのか、気になって仕方ない。シャロンは今日もハウスメイドとして、フラムスティード家の環境を整えていた。
しかしそうはいっても、あれから青年から声を掛けられてはいない。青年に関する変わったことが起きた訳でもない。そもそも会う機会が無いといった方が、正しいだろう。
唯一顔を合わせるのは食事の時間だけだ。勿論言うまでもないが、話しかけることは叶わない。
今シャロンは、使用人ホールでの昼食を早めに済ませ、自室で休憩しているところだ。
この二週間の内に何とか仕事にも慣れてきた。厳しいことを言われることも、怒鳴られることもあるが、以前よりは回数が減ったように思う。
けれどこのまま、メイドとして暮らすわけにはいかない。
シャロンはこの問題に、一人で立ち向かわないといけない。青年は一時的に、シャロンを狙わなくなっただけなのだから。
といっても、これからの行動方針が決まっているわけでもない。
お金を稼ぎながら、相手のことを探らないといけない訳だが、メイドという職業は拘束時間が長い。その代わり、衣食住はそれなりに保障されている。
救いがあるとすれば、期間が短い所だろうか。以前いたメイドが、故郷の母親の看病に戻っているらしい。シャロンが雇われたのはそのメイドが戻ってくるまでの――いわば穴埋めのためなのだ。
そのため居られても、後一ヶ月程度だろうとシャロンは予想している。
現実的にシャロンが今出来ることは、あの『鍵』を使うことだろうか。
今までは『鍵』を持っていること自体が嫌だった。一応自分が持つことに納得はしたものの、それは人に迷惑を掛けたくないという思いからだ。
額面どおりに捉えれば、とても高尚な行動かもしれない。けれどもそうでない事は、シャロン自身がよく分かっていた。
シャロンにとっては、これ以上人に迷惑を掛けること自体が、苦痛で仕方なかったのである。
いやもっと言うならば……恐ろしいのだ。襲われることではない。これ以上人に迷惑を掛けてしまう現状に対して。
今回の原因は自分自身にあることは、明白だった。
口先で言い訳をしたとしても、自分に対する嫌悪感は益々強くなるだけだろう。この騒動で、人に不快感や嫌悪感を持たせしまい、その感情が向けられる事。そしてその行き先――それがシャロンの恐れることであった。
誰だって多かれ少なかれ、悪感情は誰に対しても持っている。世の中はそういうものだと、シャロンだって当に知っている。
シャロンももう、無邪気な子供という年齢ではない……
しかしシャロンは、人々の負の感情に対して誰よりも敏感だった。
正体不明の人物ですらない何かに襲われることより、シャロンの引き起こした行動によって向けられる悪感情のほうが、シャロンには恐ろしかったのである。
だからこそ『鍵』を手放さず、自分で持っているという決断をしてしまった。
誰にもこの決意を言ってはいない。だけども自分で決意してしまった事で、シャロンは言いようの無い不安に襲われる。
徐々に徐々に、自分の背後から何かが迫り繰るような気がしてならない。
シャロンはこんな事ではいけないと、頭を払った。
今までの数少ない情報から考えると、持っているだけで持ち主だと判明されてしまうらしい。
悪魔のレスチャーもそうだし、あの青年も『鍵』自体のことではないが――シャロンの鞄の中身を知っているような事を、仄めかしていた。
そう仮定すると、積極的に『鍵』を使用したほうがいいのではという考えが過ぎる。
けれども、推測の域を出ないのが現状だ。
青年に渡す分以外のお金は、レスチャーの依頼料に充てよう。きっと色々調べてくれるはずだ。次の休日には絶対事務所の戸を叩こう。
一度そう決めてしまうと、胸の内に巣食っていた黒い靄が揺らいだ様な気がした。
今日の午後の予定は、靴磨きである。
シャロンは午後用の服に着替え、自室から出る。その時メイドたちが、例外なくドキリとする、鍵束のなる音が聞こえた気がした。
扉を開けるとそこには、家政婦のマレット夫人がいた。今日も柔和な微笑を浮かべている。
以前は艶やかな黒髪だったであろう、灰色の髪をきっちりと結い上げている様は、家政婦に相応しいといえた。
「丁度良かったです。シャナ、話があります。私の部屋に来てくれますね?」
「は、はい」
よく分からないままに、シャロンは自室を後にした。
家政婦室で聞いた話は、驚愕の一言だった。
「そんな! そんな大変なお役目、私には出来ません!」
「貴女の気持ちはわかるわ、でも私は、貴女なら大丈夫だと思うのだけれど……」
「わ、私には無理です! 他の方にお願いしてください」
「ねぇシャナ、そんなに構えることは無いのよ? 難しいことは必要ないわ、ただお嬢様の傍に付き従うだけでいいのですからね」
「いえ、私には出来ません、長い期間ではないとはいえ、お嬢様付きの侍女になるだなんて!」
そう、シャロンはアイゼフェロー侯爵の末娘、エディス=フラムスティードの――期間限定とはいえ――侍女にならないかと打診されたのである。
まさか、このような事を言われるとは、夢にも思わなかったシャロンである。目立ちたくないからこそ、この職に就いたというのに、侍女になってしまっては意味が無い。
侍女になってしまったら、きっと様々な社交パーティーに随行することになるだろう。主催されている屋敷に着いたら、控え室で待つようになるとは思うが、それでも知っている顔に会ってしまうことは十分に有り得た。
シャロンはいま眼鏡を外しているだけだ。何も変装はしていないと言ってもいい。
メイドをしながら、変装にまで気を配るのは難しいだろう。という、青年の提案は最もだったが、まさかそれが裏目に出るかもしれないだなんて。
このまま見知っている人に会えば、何の拍子にシャロンのことが発覚してしまうかもしれない。曲がりなりにも伯爵家に身を置いている自分が、他家に仕えているなんてことが分かってしまったら、醜聞ところでは済まないだろう。
新聞各社がこぞって一面の見出しに使うかもしれない。その光景が過ぎってしまったシャロンは、思わず頭を抱えたくなった。
「シャナ、貴女のうちは洋品店だったわね? お店番もしていたとか」
「は、はい」
「その所為でしょう、貴女の動きはちゃんとしているところがあるわ。きっとご両親の教育が良かったのでしょうね、背筋も伸びているし、歩き方も貴女の出自を考えると静かよ。足りない所は私が教えます。それにメイドは順番でやっている事です。そんなに身構える必要は無いわ」
「で、ですが、私は来てまだ1ヶ月しか経っていない訳ですし」
「今居るメイドは皆一通りやったから、順番としてはあなたの番なの。戸惑うこともあるとは思うけれど、これも経験しておいて損は無いと思うのよ……貴女のお家の事も考えると、きっといい勉強になるでしょう。お給料も多少は良くなると思ってくれていいわ」
確かに給料が増えるというのは、嬉しい事だ。しかし、目立つことは避けたい。
けれども、使用人という立場で我を通すのも良くないのではないか。
こういうことが、職場の雰囲気を乱すことにもなりかねない。
シャロンはマレット夫人を恐る恐る伺う。するとなんだか寂しそうな顔をしている事が分かった。キーツ夫人やアシュトン夫人の姿がシャロンの胸中に浮かぶ。二人とも心配しているに違いなかった。
シャロンは胸に、針のような物がちくりと刺さる感覚に陥った。
「分かりました、そこまで意思が固いのなら違う者に打診をしましょう……残念だけれど仕方ないわね、このまま靴磨きに向かってくれて構わないわ。今の件は忘れてもらっていいから」
マレット夫人は、ふぅと息を吐いた。
「わ、分かりました。ご面倒をお掛けしてしまいますが、私、精一杯やらせて頂きます」
シャロンは無意識に、そう言ってしまっていた。
「あぁ! 本当にやってくれるのね、私はとっても嬉しいわ。では明日から、午後になったら私の部屋に来るようにして」
「分かりました」
シャロンはなぜか釈然としない物を抱えながら、家政婦室を後にした。