序章   告げられた世界04


「は、何いってんだ」
「だって、君はこれからシャロンを襲った犯人を追うんだろう?」
  青年の問いに、アドルフは意に介した様子すら見せなかった。
「そんなこと言ったか?」
「私でなくても、君がシャロンを襲った人物に衝撃を受けたことは分かるさ。君が思わず『力』を放出してしまったことからもね」
「だから、どうしてそうなるか訊いてんだ」

  にこやかなアドルフとは対照的に、青年は苛立ちを募らせているようだ。アドルフに言われた事に苛立っているのか、それとも少しの間すらも惜しいほど急いでいるのだろうか。

「シャロンが再び襲われる可能性は高い。君の推測からすると、彼らは目的を果たしていないのだから。相手が襲ってくるのを待つのも気分が悪い。君に倒してもらったほうが安心できる」
「顔しか分からない相手を倒せだと?  お前気は確かか」
「君なら不可能じゃないだろう?  それに先程頼みだと言ったじゃないか依頼でもいいが」
「……お前は本当に食えないやつだ」

  青年はどこからともなく紙巻き煙草を取り出し、口に咥えマッチで火を付けた。火薬の音とともに灯が点り、煙草と火が触れあい、煙が宙に放たれる。
  それを見てシャロンは、やはり同じ階級の人間ではなさそうだと思った。紳士ならば、女性を居る場で喫煙し始めることはありえないからだ。品が良さそうに見えたのは、見かけだけのようだ。


「なんで、連れていってくれないかって言ったんだ?」
  青年は一息つくと、挑むようにアドルフを見据えた。
「君は知らないかもしれないが、今は社交シーズン中でね、様々な方々に注目されているといっても過言ではない。年頃の娘もいることであるし、人目に付くことはしたくない。今回の騒動は何故か広まっていないようだが、今度彼らがうちの屋敷に現れ、シャロンを襲ったら?」
「噂になる可能性だけではなく、社交にも影響が出る可能性があるってことか?」
「そうだ、私もこの立場でないのなら、人様にどう思われようが気にしないのだがね。今の時期は特に私の判断で、どう転ぶか分かったものではないんだ。それに使用人達にも被害が出ることは避けたい」
「なるほどな」
「中にはとても繊細な方も居てね、話を聞いただけでも過剰なまでの反応をする方もいらっしゃるからね」
「繊細ねぇ……」
「自分の領地でない以上、こちらの規律に従わねばならないし、ほかの方々にご迷惑はおかけしたくはない」
「ふぅん、で、それだけじゃ俺が連れ出す理由にはならないよな?」
「今回の事は、私達の手には負えないだろう?」
「で、報酬は」
「受けてくれるのかい?」
アドルフは喜色を隠すことなく言った。
「……報酬次第だな」

  青年の機嫌は、どんどん悪くなっているようだった。先程から頬杖をつき、煙草を燻らせている。しかし、目は、いや、声音も態度も、青年は全身でこの会話に終止符を打ちたいと主張していた。
  青年が了承したら、このまま自分は青年と一緒に、何処にいるかも分からない危険人物を探さなければならないのだろうか。出来ればそれは避けたいというのが本音だ。まだ会ったばかりの男性と一緒に過ごすだなんて、淑女(レディがすることではない。
  いや、自分はこれから家名にふさわしい淑女(レディにならないといけないわけだが――だからこそ、社交上由と言われないことは避けないといけない。

  そうだというのに、その原因を引き起こしてしまった自分に、嫌気がさす。どうして父の領地のロゼッツに居るときは、平穏に過ごせているというのに、王都(ブリュネベル に来ると面倒事を起こしてしまうのだろうか?
  公衆の面前で悪い印象を持たれることをしてしまうだけでなく、まさか命を狙われる羽目になるとは……やはり自分自身に問題があるのだろうか?
  シャロンが自問自答していると、数時間前に初めて聞いた声が響いた。

「お前の娘殺していいか?」

  シャロンは久しぶりに頭や胸にこみ上げてくるものを感じた。
  シャロンが普段怒ることは滅多にない。けれど、流石に内容がないようなだけに、言われたまま黙ってはいられないと思った。

  しかし、脳裏に何か見覚えのあるものがチラついた。
  それは思考を一瞬にして真っ白に染め上げていく。
  自分と世界が瞬時に切り離されたような感覚が襲う。
  自分と世界の間に膜が出来、その膜は瞬く間に厚くなりシャロンを包み込む。
  まるでシャロン自身を守るかのように……
  そして、その膜が厚くなっていくにつれて、シャロンの体の力も抜け、
  感覚が、神経が、なくなっていく。
  それを同時に広がっていくのは浮遊感だ。
  地に足が着いているのが、可笑しく感じるほど、
  自分がここに居るという現実味がなかった。
  その間にも時間は流れていく。何か二人で話しているのは分かる。
  けれど、何を言っているのかは分からなかった。
  人からそのような言葉を言われたのは、何年振りだろうか?
  青年の像が歪んでいくにつれて、その像は違う形を作っていく。
  記憶の中のあの人は良妻賢母と言うのがふさわしい微笑みを称えて、
  シャロンに向けて微笑む。
  しかし、シャロンはその微笑みが偽りであることを知っている。
  そう、あの時とはもう違うのだ。
  その像が歪み、本当の彼女の顔が浮き出てくる。
  彼女は顔を強ばらせ目を真っ赤に血散らせ、全身から怒りを立ち上らせていた。

「お前が代わりに死ねばよかったのに!」

「おい、大丈夫かっ!」
  その声にはっと我に返ると、青年が目を細めてこちらを覗き込んでいるのが分かった。左肩には青年の手が添えられている。その手はやはり冷たかった。
「だ、大丈夫です」
「そんな顔して言われても、説得力ないぞ。疲れただろ? ゆっくり休め」
  その言葉と同時に、意識は薄れていった。

  あれからもう一週間が経過した。目が覚めた時はもう夕方で、自室の寝台(ベッドの上だった。
  勿論青年の姿はなく、起きたときメリッサが涙目で駆け寄ってきて、シャロンはまた心配をかけてしまったと悔やんだ。
  そして、その翌日アドルフが自室に見舞いに来てくれた。そのとき何か話して言ったのだが、シャロンにはよく聞こえていなかった。青年の言葉とあの人の姿が頭から離れない。それを振り払うのに必死だった。

  やはり、アドルフは娘のことを不要だと考えたのだろうか?
  シャロンは今トランクを持ち、使用人専用の裏口にいた。今の服装はその出入り口を通るにふさわしい出で立ちである。自分の外見にはこのような出で立ちが丁度いい。貴族としての義務も十分に果たせないのだから、あんなきれいな服を着る価値は自分にはない。

  今朝アドルフは、ここに居るようにと指示した。アドルフはしきりに心配することはない。お前はちゃんと言われたことを守っていればいいと言っていた。一体なにを言っているのだろう。心の隅に浮かんだ仮説に気づかない振りをしながら、シャロンは不安で押しつぶれそうになっている。

  その時、視界の隅で何かが動いたのに気づいた。驚いて顔を上げる。すると、青年がシャロンの真ん前でしゃがみ込み、こちらをを覗き込むように眺めているのが分かった。まるで観察されているかのようだ。その視線を追うとふと目が合ってしまい、反射的に目を逸らした。
  青年はシャロンの行為を気にする素振りを見せずに「行くぞ」とだけ声を掛け、シャロンのトランクを軽々と持つと、そのまま歩き去ってしまった。

  慌てて後を追う。青年にはすぐに追いつくことが出来た。その時あることに気づいた。青年が身につけている服は、初めて会ったときの服装ではなく、シャロンにも幾分か馴染みのある服装だったのだ。
  幾分使用感のあるフロックコートに、山高帽。細身のズボンにつま先が細く尖った黒の靴だ。シャロンと並んでも違和感が全くない。
  こちらの服を着ている青年に違和感を覚えながらも、無言で後を着いていく。何か聞いた方がいいのではと、もう一人の自分が囁く。しかし、質問することが怖いため、黙って着いていく。なにも言わなければ、怒られる事もないのだから。

  基本的に馬車での移動しかしないシャロンは、慣れない土地での徒歩に戸惑う。けれど、今そんなことを言っても仕方ないだろう。
  ブリュネベルの駅に着いた。やはりいつ見ても、王都というに相応しい活気にあふれている。様々な階級の人々が歩いている様は、駅ならではだ。
「機関車に乗るのですか」
  シャロンは青年に目線を合わせず、人波を眺めながら訊いた。
「いや、用があるのはそっちじゃねーから」

  慣れた様子で青年は人波のほうへと向かう。歩くことにすら慣れていないシャロンには、この中を歩くことは厳しいだろう。
  人波の中を歩いたら逸れてしまいそうだと思ったそのとき、青年はごく自然にシャロンの左手首を右手で掴んで、そのまま人波へと分け入っていった。
  掴まれた左手首は、青年の氷のような手に、瞬く間に体温を奪われる。しかし不快感を感じることはなく、むしろしっかりとした掴まれ方に安心した程だった。

  自分はきっとブリュネベルに来て、頭がおかしくしてしまったに違いない。アドルフは気にすることはないといっていたが、自分の殺害を予告した人と一緒に歩いていても、触れられても、恐怖感はおろか不快感すら感じないのは、狂っているとしか言いようがない。

  青年の歩みが止まり、掴まれていた左手首も離された。何故か寂しさを感じたことを不思議に思いながら、つられて止まる。そこは乗合馬車(オムニバスの停留所のようだ。
  階級に関係なく並んでいる人々に興味が湧いたが、初めての乗合馬車(オムニバスに緊張感も感じる。しかし、乗ってしまえば案外悪くないものだった。
  王都には、田舎と比べられないくらい沢山な人や様々な人が居る。きっとこの人達と再び乗合馬車(オムニバスで相席になることはないのだと思うと、なんだか不思議な気持ちだ。

  降り立った場所は、中流階級から労働者階級が暮らしている地区だった。





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