序章   告げられた世界01


  シャロンが目を開くと、いつもより妙に明るい事に気が付いた。その光は、まだ完全に目が覚めていないシャロンの意識を覚醒させるには十分だった。シャロンは慌てて寝台(ベッドから飛び起きる。
  すると、寝台のすぐ脇にある机に、見慣れない細長い糸の束が置いてあるのが分かった。それは、自分の髪の色そのままのような色だ。そしてその隣には書置きがあり、そこには見慣れているアシュトン夫人の字で、「よろしければお使いください」とあった。

  恐る恐るその束を手に取ると、それは付け毛のようだった。書置きの他にも、紙が置いてあることに気づいたシャロンはそれを見た。そこには詳細に付け毛の使い方が記してある。シャロンはそれを読み、短くなってしまった髪に付けてみることにした。

  姿見で確認すると、そこには今までと変わらない自分の姿があった。これで何とか社交の場に出られそうだ。しかし、なぜこんなにも早く自分の髪そのままの付け毛を用意出来たのだろうか?  不思議に思いながらも、シャロンは自分の姿に安堵を覚えた。
  このことメリッサに直接話す勇気がないシャロンは、いつも通り寝台に横になると、メリッサを呼んだ。メリッサはすぐに駆けつけてきた。

「おはようと、言ってもいいのかしら」
  シャロンは不安げな様子でメリッサに訊いた。
「旦那様が、お嬢様をゆっくり休ませるように仰っていたので、お気になさらないで下さい」

  メリッサは微笑んでそう伝える。その時、昨日の不可解な出来事が頭を過った。皮膚の辺りが、微量の電流が走るかのようにしびれて、硬直してしまう。自分の意思とは関係なく、冴えわたる神経にシャロンが動揺していると、「シャロンお嬢様」とメリッサに呼ばれた。
  こういう風にメリッサが呼ぶときは、改まって何か言いたいことがあるときだ。

「どうしたの?」
「昨晩は……申し訳ございませんでした」
  深々と頭を下げるメリッサを、シャロンは慌てて止める。
「どうして、謝るの?」
「私が、お嬢様をお迎えにあがっていれば、このような事には……」

  どうやら、シャロンが何者かに襲われたことは、伝わっているようだ。メリッサの顔は悲痛に歪み、眼はいつもより光っていたが、その煌めきが顔を濡らしてはいなかった。
  そんな顔を見ていると、胸のあたりに針でチクリと刺されるかのように痛む。
「メリッサは待合室に居たのだから、気づくことの方が難しいと思うけれど……」
  シャロンはなんとか微笑んでみせると、両手でメリッサの手を掬うようにして取った。
「だから……」
  何と言っていいのか分からなかった。元々話すのは得意ではない。しかし、メリッサにはそれで通じたようだ。
「申し訳ございません。私の方がお嬢様にご心配をお掛けしてしまいましたね」
  メリッサの目は未だに涙で光ってはいたが、先程よりも声には張りがあった。多少は気持ちを和らげることが出来たようだ。シャロンはほっと息を吐く。

「旦那さまも、ご心配なさっていらっしゃいましたよ」
  それで思い出した。アシュトン夫人が意味深な事を言っていたのだった。アドルフは、助けてくれた青年の事を何か知っているらしい。
  今思い返しても、今までかつてない衝撃的な出来事だ。あの襲ってきたものの正体が、人間なのかすら怪しいが――あんな風になってしまうなんて、思いも寄らなかった。青年はあの後どうしたのだろう?
  何だが襲ってきた人物が浮いていたことよりも、彼の存在の方が、妙に現実味がなく――感じられた。
自分が襲われたことに対する現実逃避ではないと思う。彼の存在がなんだが、靄がかかったような……夢の出来事のように感じる。
  しかし、絶体絶命の所で助けが入ったことで、そう思っているだけなのかもしれない。
  昨日の出来事について反芻していると、青年は、あのシャロンを襲った人物について何か知っているようだった様子を思い出した。色々と分からないことが多く、考えれば考えるほどよく分からなくなると思った瞬間、無意識にこんな言葉が口を吐いていた。

「お父様のご予定は、どうなっているのかしら?」
「今日はこちらにいらっしゃる予定のようですが」
「……お客様がいらっしゃるの?」
「そのようなお話は聞いてはおりません。今日はお一人で過ごされるようです」
「そう……」
  毎日のように、他の上流階級の人々と繋がりを保つため、精力的に他の屋敷を訪問しているアドルフが、屋敷に居るだなんて……珍しいこともあるものだとシャロンは思った。
  駄目元で聞いてみたが、訊いてみてよかった。

「旦那さまのご予定を訊いてきましょうか」
「お願いできる?」
「訊いて参ります」
  メリッサは話の内容からシャロンの思いを察したのか、部屋から出て予定を確認してくれた。メリッサは戻ってくると、直ぐに笑顔で「今日の予定は何もないそうです。お話も何時でも大丈夫だそうですよ?」と伝えてくれる。
  そして何も言ってもいないのに、朝食も持って来てくれた。シャロンの具合を考慮してか、食べやすいものばかりだ。本当に些細な事まで、何かをしてくれる。メリッサだけではない、何時も何人もの使用人たちが、シャロンの生活を支えているのだ。なのにも拘らず自分は……

「ありがとう分かったわ」
「お一人で大丈夫ですか?」
「大丈夫、食べたら行ってくるわね」
  なんとか食事を食べ終わると、心配しているメリッサに軽く手を振って、シャロンはその場を後にした。
アドルフの部屋まで行く。三回ノックして、用件を伝えると、すぐにドアを開けてくれた。
  誰かしら使用人が居るものだと思っていたシャロンは、父が自ら開けると言う事は、誰も部屋の中にはいないのだろうと思った。けれども、部屋の中に入っていくと、そうではないことに気付く。

――彼だ。彼が居た。

  助けてくれた時と同じ服を着たまま、青年は椅子に座っている。シャロンが入ってきたことに気が付いているのかすら怪しい様子で、頬づえをついている。チラリと見た様子では、どこか上の空と言った様子だ、全くと言っていいほど反応がない。

「……私がお邪魔しても大丈夫なのでしょうか?」
  思わぬ先客に驚いたシャロンはそう尋ねるが、アドルフは特に気にしている様子はなかった。
「別に構わないよ、それよりもシェリー。体調はどうだい?  その様子を見ると、私からお前の部屋に行った方がよかったようだ」
「もう大丈夫です。ご心配をおかけしました」
「そうかい?  そういう割には顔色が悪そうだが……」

  アドルフは顔を強張らせ、シャロンを気掛かりな面持ちで見つめるが、「本題に入ったほうがよさそうだね」とシャロンに椅子に座るように促した。
「今日はラヴィニアには来てもらわないことにした。その方が良いと思ったからね」
「重ね重ね、申し訳ございません。昨晩は、私の所為でご迷惑をお掛けしました」
  あぁ、本当にどうして自分は王都に行くと、面倒事を起こしてしまうのだろうか……
「襲われるようなことをしたのかい?」

  シャロンの思考を切るように、確かめるように問いかけてくるアドルフに、シャロンは顔を曇らせながらも、声を絞り出した。
「心当たりはありませんが、騒動を起きたのは私に原因があるからでしょう」
  アドルフは一瞬視線を落とし不愉快そうに眉根を寄せたが、気を取り直すと口を開いた。
「確かに、お前が何か相手に不愉快な思いをさせたのかもしれない。それは相手に訊かねば分からぬことだ。しかしだね、私達は会話ができるのだから、不愉快な思いをしたからと言って、相手に襲い掛かることは普通はしないだろう?」
「それは、そうかもしれません」
「だろう?  私たちは対話ができるのだからね」

  にっこりとそう微笑むアドルフを見つめながら、ふと、あれ程追い掛け回されたのだから、きっと騒ぎになっているに違いないという思いがシャロンの頭を過ぎった。
  そうだ――どうして今まで気づかなかったのだろう!  公爵家の舞踏会なのだ、それこそヴェルデクア国の至る所から、上流階級の皆々様が集まったであろう舞踏会を、途中で抜け出してしまった!!
  それに、あんなに他人の屋敷中を走り回ってしまった――しかも何も挨拶もなく、居なくなってしまったのだ。どんな話になっているのだろう……そう考えるだけで、意識していなかった頭の痛みがまた戻ってきそうになる。今まで気づかずに居た自分にも、腹立たしさが募ってきた。

「あの……お父様、あの後は大丈夫だったのでしょうか?」
  訊きたいような訊きたくないようなどちらともいえない心境のシャロンであったが、僅かに、訊かなければならないという思いが上回り、恐る恐る聞いていた。しかし、父は変わらず穏やかな表情だった。
「あぁ、それなら気にすることはない。お前は体調が崩したので、先に馬車で帰らせたと言っておいたからね。お前がこちらに慣れていなくて、丁度良かったかもしれない、それに昨日のことは誰も知らない」

  それを聞き、シャロンは幾分落ち着きを取り戻した。社交パーティーはいつ帰るかは自由だ。パーティーは日程が重なることが多いため、途中で切り上げることも珍しくない。シャロンが居なくなっても、可笑しいと思うものはいないだろう。しかし、気になることが沢山ある以上、安心できるわけでもなかった。

「あぁ、そう言えば彼の事を説明していなかったね。彼とは古くからの知り合いでね、今回は偶然この国に足を運んでいたそうだ」
「そうなのですか……この度は本当に有難うございました」
  青年は視線をこちらに投げてきた。しかしすぐにシャロンから視線をはずし、「本題」と呟いた。
「全く君は」
  アドルフはそう笑うと、シャロンに向き直る。

「来たのは、昨晩のことが気になったからだろう」
「はい、アシュトン夫人がお父様が色々とご存じだとおっしゃっていたので……」
「そうか、一応この件について簡単ではあるが知っているつもりだよ、彼に訊いたからね」
  アドルフはそういうと横目で青年をチラリと見た。
「そうでしたか」
「だがお前の話も聞きたくてね、だから呼んだんだが……詳しく話すことは出来るかい?」
「分かりました」

  そう言ったものの、自分でも色々とよく分かっていなかったらしい。
  一言で言ってしまうと、支離滅裂と言った方がいい内容だった。要領も得ていないし、主観でしか物事を言えなかった。
  けれどそれでもアドルフは、目を瞑りうんうんと頷いていたし、青年も僅かながら訊いている素振りであることに、シャロンは安堵した。しかし話せば話すほど、青年の顔は険しくなっていった。

  どう見ても苛立っていく様子が分かり、シャロンは話すのをやめようとした。しかし話を途中でやめてしまうのはいけないような気がし、そのまま話した。
  なんとか話し終わると、青年は静かに聞いている素振りは崩していないものの、話しかけたくも、いや、近寄りがたい雰囲気を醸していた。

  話すことはあまり得意ではないほうだが、こんなに疲れたのは初めてだった。





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