序章  現れた真夜中04


  こちらでお話を伺ったほうがよさそうです。
  アシュトン夫人はそう言うと、シャロンと青年に椅子に腰掛けるよう勧める。そして自身は紅茶の準備に取りかかっていた。

  夫人が紅茶を煎れている最中も、シャロンの頭の中では思考が渦巻いていた。アシュトン夫人は、彼の事を知っているらしい。それが分かれば、彼がこの屋敷を知っていたことも可笑しくはないと思った。
  しかし、なぜ私がこの家の人間だと分かったのだろう。という疑問は消え去ることはない。謎は深まるばかりである……ここでアシュトン夫人に疑問を投げかければ、何かしら答えてくれるだろうが、青年が居る前で質問をする勇気はない。
  紅茶の準備が出来たようである。まずシャロンに配り、その後に青年の許に運ぶ。客人が先ではないだろうか?しかし夫人がそんな初歩的な間違いをするとは、どうしてもシャロンには思えなかった。

「お久しぶりでございます。この度はお嬢様をお助けいただいたようで、ありがとうございます」
  普段通りの淡々とした調子でそう告げるが、シャロンにはちゃんと心が籠っていることが感じられる言い方だった。
「そんなこと言ったか?」
「状況を見れば自ずと分かることですから」
「ふぅん……変わってないな」

  右手で頬づえをつき話を聞いている所作すら、様になっている。その姿を見ていると、何故だが苛立ちが募る。シャロンはそんな心境に気づかない振りをして、紅茶を味わう。
「所で、旦那様はこの事をご存じなのでしょうか?」
「一応連絡は入れた」
「そうでございますか、では私はお嬢様の手当てをしなければいけませんので失礼します。ごゆるりとお過ごしください」
「あぁ、じゃあな」
「お嬢様申し訳ありませんが、私室へご移動願います」
「え、えぇ……」
  シャロンは言われるまま、夫人の私室を後にした。

  自分の部屋に着いたシャロンは、ほっと一息をついた。これで少しは落ち着ける気がする。しかし、命の恩人であろう彼を、あのまま放っておいてもいいのだろうか?

「あの方のお相手をしなくても大丈夫でしょうか?」
「御心配なさらずとも大丈夫です。あの方は私達とは違う尺度をお持ちのお方ですから」
「そ、そうですか……」
  アシュトン夫人の言う事はよくは分からない。しかし、そういうのなら大丈夫なのだろう。
「お嬢様、お疲れでしょう。今日はゆっくりお休みになってください。シャワーはお使いになりますか?」
「はい」
「では、着替えの方を手伝わせて頂きます」

  浴室に行って、服を脱ぐのを手伝ってもらう。夜会の服は一人で着替えられる形状のものではないので、気恥ずかしいがどうしても手伝ってもらわなければならない。申し訳なさを感じながら、コルセットや装飾品(アクセサリー類を外してもらい、シャワーを浴びた。
  シャワーを浴び終わり、緊張状態から解放されたシャロンは、無意識に衣服を身に着けながら、先程切られてしまった髪の事を不安に思っていた。
  シャワーを浴びて分かったことだが、あんなに髪が切られているとは思わなかった。これでは誤魔化しようがないだろう。髪の半分ほどが、肩に付くくらいの長さになってしまっていた。

  シャロンは自分の美醜についてはもう足掻くことを止めた。

  だからこそ、切られた直後は驚いたものの、そこまで喪失感に襲われることはなかった。けれども、ここまでひどい切られ方をしているとは予想すらしていなかった。これでは、社交に支障が出てしまうだろう。それでなくても、取り柄と言う取り柄がないのに、これではもう……

  シャロンの心臓は、周囲に音が聞こえてしまうのではないかと言うほど、音を立て始める。
  どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう……
  突然様々な事が起こったせいで、思考が正常に働かずにいたシャロンは私室に戻った所、自分の現実を取り戻したのであった。これでは、完全に役立たずになってしまう……それだけは、それだけは嫌だったのに――

「お手伝い出来ずに申し訳ありません」その声と共に夫人が姿を現した。
「だ、大丈夫です。脱ぐわけではないですから」
上手く話せていただろうか?よく分からない。
「紅茶を用意いたしますので、お飲みください」

  シャロンは自分でもよく分からないままに、浴室から私室へと向かった。
  これからどうすればいいのだろうか?社交が得意ではなく――むしろ苦手なシャロンには、この髪の事を指摘されて上手く立ち回れる自信は一かけらもなかった。いつも叔母が傍にいて、助けてくれるわけでもない。母が居ない父はいつも忙しそうで、頼るなんてことは論外だ。

  自分一人でどうやって切り抜ければいいのだろう……
  こういう時、母ならどうするのだろう。いや、母はこんな危機に陥ったことなどないに違いない。なにせ社交界の華とまで謳われた人物なのだから……

「お嬢様、髪を揃えましょう」
  アシュトン夫人は、髪を揃えましょうと言ったが、揃えると言う事は髪を肩の辺りまで切ってしまうと言う事を意味していた。
  しかし、このままの髪でいることは、もっとひどい姿のままでいると言う事である。だがそう自分に言い聞かせても、他人に髪を奪われることと、自分の意思で切ってしまうことは全然違う事のように思えた。
  自分で髪を切ることに同意してしまえば、自分でこの姿になったことを受け入れてしまうことになってしまうのではないか。自分から進んでこの姿になったとは思われないか……そんな感覚がシャロンの胸を占め、決断できないでいた。

「お嬢様、髪は伸びます」
  そんなシャロンの思いを読み取ったように、アシュトン夫人がそう言った。彼女をよく知らない人間からすれば、冷たいとも感じ取れる普段通りの淡々とした物言いだった。しかし、それが逆に本心からの言葉だとささやかに主張する。
  その飾らない言葉に安心感を感じたシャロンは、髪を自分の意思で揃えることを決意した。

  アシュトン夫人に髪を切りそろえてもらったシャロンは、触られた不快感が無くなったことで、多少は落ち着きを取り戻した。
  しかし、憂鬱な気分が無くなったわけではない。それに、なにも解決はしていない。社交のことも勿論、襲ってきた犯人のことも……シャロンはアシュトン夫人に質問を投げかける。

「私を助けて頂いた方の事を訊いてもいいですか?」
「……」
  僅かな沈黙の後、アシュトン夫人は口を開いた。
「私の口から、お話しできることは……一つです」

  普段の物言いからは感じられない歯切れの悪さに、シャロンが訝しんでいると、意を決したようにアシュトン夫人は続けた。
「あの方は、私たちとは違うと言う事だけです」
  シャロンが戸惑っているような表情を浮かべたことが分かったのか、夫人はさらに言葉を続ける。
「詳しくは旦那様がお話し下さるでしょう。お嬢様、もう遅い時間になりました。ごゆっくりお休みなさいませ」

  シャロンは言われるままに、寝台(ベッドに入った。





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